海側生活

「今さら」ではなく「今から」

月読神社

2013年05月30日 | 興味本位

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                                                    (湯ノ本湾/壱岐)

H,Uさんがバックの中から何やら品物を取り出した。
「ハイ、君の分---」。セロファンに包まれている。単行本サイズだ。福岡空港に着いた際の出来事だ。

「今日も酷いんだ。眼が痒い」。天神に向う地下鉄の中でH,Uさんは盛んにボヤいている。周囲を眺めればマスクをしている人が30%は居る。

翌朝の天気予報でも『今日は70を越えています』。アナウンサーの『洗濯物は室内に干したほうが良いでしょう』と淡々とした声が流れていた。PM2.5の表現ではなく、光化学オキシダントと言っている。聞けば昨日も数値が70を越えたため、有田のある小学校では、運動会の練習を運動場ではなく、予定変更して体育館で行ったそうだ。気温30度を越した環境では、マスクをして飛んだり跳ねたりするのは子供達にとっては違う辛さがあるだろう。

全ての景色が白っぽく霞んで見える中、壱岐島に渡った。
壱岐島は博多や唐津からより大陸に近いためか、空も近くの島々も、まるでオブラートに包まれているかのようだ。ただ海だけは透明度が高い。20メートルぐらいの深さでも、手を伸ばすと海底の砂が掴めそうだ。太陽を背にして、底を見下ろすと魚が群れをなしている。

今回の旅の目的は、数年にわたり尋ね歩いている元寇の跡を確かめる事と、日本神道の発祥の地とされている月読神社を、どうしてもこの眼で観たかった。
祭神は月読神(ツクヨミノミコト)だが、今まで余り知らなかった。誰でも知っている天照大神(アマテラスオオミノカミ)や素戔男尊(スサノオノミコト)とは三兄弟でありながら日本の神話にも殆ど登場しない。また天照大神や素戔男尊を祀る神社は日本中に数十万社あると言われているが、月読神社は数えるくらいしかない。何故だろう。尋ねてはみたが新しい知識は殆ど得られなかった。「古事記」や「日本書紀」などを読み直す必要がありそうだ。

社殿は木々に覆われ、月の神を祀る神社らしい風情はあった。

しかし、昼食時に妙に納得できる句が軒下に吊るしてあった
食堂のオヤジさんの作句なのか、或いは旅人が書き残したものなのか、♪日帰りで 行ってみたいね 神の国♪

夕食は、今朝、獲れた島名物の雲丹と烏賊、それに鮑のフルコースだった。放射能の心配をすることなく堪能した。凪の海の黒崎半島に沈む太陽は、オキシダントを含んだ黄砂のためか、空と真珠の養殖筏が浮かぶ海面を鮮やかな茜色に染めていた。

人間が自然と共生するのは永遠のテーマなのか。


壁と隙間

2013年05月20日 | 感じるまま

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                            (雨の建長寺)

善人には壁ばかり見え、悪人には隙間ばかり見える、それが法律だ。

人間社会は様々な制約が無いと共存できない。その制約が法律である。人と人でも国と国でも、この法律を中に置いて付き合っていく。

最近、法律の解釈の違いで、嫌な思いをさせられた事件が報道された。
こんな時は裁判や外交やらで解決を図られるが、声の大きさや力の大きさを誇る人や国の必要性が採用される事になる。
しかし無力感を感じながらも、法律の存在を信じなければならないし、法律に守り守られて生きるしか方法が無い。

現代社会は無数の事件によって構築されている。かっては、社会は文化や善意で成り立っていた。いつの間にか事件と悪意で組み立てられるようになった。それらの認定を法律が行う。だから日常、法律書に馴染んではいないけど、法律の意味するところは知っている。
心理試験でこんなのを受けたことがある。白黒の組合わせの絵で、白の部分を意識して見ると、キッスしようと唇を近づけた横顔が浮き立ち、クロの部分を凝視すると大皿に見えるというものだ。その一枚の絵を白黒どちらで見たかで何らかの分析をする。
丁度法律と言うのが、それと同じに思える。法律の心理は一つであってもらわないと困るのに、黒で読む人と白で読む人がいる。又そのように読める。
自分が法律を読むと「これは、してはいけない」と壁ばかりが道を拒むが、全く別の素質の人には「ここまでやっても罪にならない」と言う隙間ばかりが見えるらしい。

そして現代社会は、この隙間論が多数派なのかも知れない。壁は隙間を教える道標のようなもので、まるで我が物顔をして勝者と呼ばれている者もいる。

それにしても法律は実に不思議なものである。


仏頂面(ぶっちょうづら)

2013年05月07日 | 鎌倉散策

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                           (杉本寺/鎌倉)

待ち合わせをした友人が浮かぬ顔をしている。浮かぬ顔と言うより、無愛想な表情だ。俗に言う仏頂面だ。

訳も聞かず、予定していた杉本寺の新緑を撮りに向かった。
ここは鎌倉幕府が開かれる450年も前に僧・行基によって開かれた鎌倉最古の寺だ。
侘しさが漂う山門を潜り、苔生した石造りの階段を100段ほど登ると、藁葺きの本堂に映える新緑が清清しい。傍らの六体のお地蔵さんは赤い前掛けをなさっている。

坂東三十三観音霊場の第一番札所で、本尊は十一面観音だ。安置してある本堂の奥まった部分は薄暗く、ハッキリとは見えない。暗さに眼が慣れてくるとボンヤリと容姿が浮かび上がってきた。つい何かに引き寄せられるような気がして、前に進めるだけ歩を進めた。天井に近いお顔は穏やかな表情をなさっている。

『胸から腰へかけて豊な肉付けも美しいし、ごく僅かにひねっている腰部の安定した量感も見事である。顔容もまたいい。体躯からは官能的な響きさえ感じられるが、顔容は打って変わって森厳な美しさで静まり返っている』
この表現は、作家・井上靖の渡岸寺(とうがんじ)の十一面観音像評である。自分の知識や持っている言葉では表現が難しい。

寺の者に聞けば、観音様は女神のような容姿に造られたものが多いらしい。
改めて観ると、観音様の頭の上には沢山の仏が並んでいる。
多くの十一面観音像は頭部正面に阿弥陀如来の化仏(けぶつ)を頂き、正面と右面それに左面にそれぞれ三面があり、拝観者からは見えない背面に一面を表している。解説して頂いたが、慈悲の表情、仏道に向わせる表情、仏道を勧める表情、そして背面には人の悪行を大口を開けて笑い滅する表情とそれぞれに複雑な表情をなさっていると言う。
それらの十面の一段高い頂上に仏面があり、それは究極的理想としての悟りの表情をなさっているとか。
しかし仏面を、眼を凝らしてみれば観るほど、その面相は威厳に満ちてはいるが、無愛想で不機嫌に見える。
『その仏頂尊の表情から仏頂面と言う言葉が生まれたとも言われています』

再び仏頂尊を拝みながら、どこかで観た表情だと思った。
そうだ、隣に居る、今日の友の顔の表情だ。

人間と言う嬉しいものに生かされて来て改めて気が付く。人は意識しなくてもまた強制されなくても、十一種類の表情や、心の動きは自然と現れるのかも知れない。