海側生活

「今さら」ではなく「今から」

男の小さな迷い

2013年03月28日 | 感じるまま

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                                                (山吹/海蔵寺・鎌倉)

階段を下りるときは先に下りる。
階段を上るときは後から上る。

男性が女性をエスコ-トする時のマナーである。彼女が足を踏み出して、落ちたとき、すかさず受け止められるようにというのが、その心だが、果たして昨今の弱々しい男どもに、生育著しい女性を受け止める力があるのだろうか。軽くなった今の自分には、とても受け止める事など出来ない。

常日頃から、どこに出向いても、自分の荷物は自分で持つようにしている。もちろん体力が無くなっていると感じた時期から、なるべくバックの中身は出掛ける時から極端に減らすようにはしている。また旅先でも、それまでの身に着けていたシャツや下着類なども三日分をまとめて宅急便で自宅に送り、手に提げるバックを軽くするようにしている。

もちろん、ホテルの玄関でベルボーイに迎えられる場合は別である。荷物を持つのは彼らの職業だから素直に渡す。
しかしこの場合、自分でもチョット重いと感じるバックになっている時は、荷物を受け取る係りが女性の場合は躊躇う。女性が細身で小さい人だったりすると、つい、重いから自分で持ちます、などと言ってしまう。見栄を張っているのか、もう少し歳を取ったら、ごく自然にバックを手渡すようになるのかも知れない。

また、テレビなどの報道では「若い女が年寄りの女性を襲い----」等と、容疑者扱いのときは「女」と呼び、被害者の場合は「女性」と呼んで区別している事が多い。何とも微妙な言い回しだ。この場合、自分だったらどんな表現をするのか。

とにかく女、いや女性に関しては、どう対処したら良いのか、男を長くやっていても分からないことが多過ぎる。


2013年03月21日 | 季節は巡る

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                                                                 (瑞泉寺にて)

いつの間にかその盛りの峠を越してしまった。
あれほど待ち望み、優しく甘く咲き誇った梅だったのに。

傍らには「自分の番だ!咲くぞ」とばかりに、白木蓮が大きな蕾を真っ青な空に向って声を上げている。レンギョウや雪柳も艶やかで可憐な姿を陽の光りにキラキラと輝かせている。時ならぬ夏日を過ごした桜も一斉に蕾を開き始めた。
海ではシラス漁も解禁され、水揚げも好調だ。
春本番が急ぎ足でやって来た。

時の移ろいには驚かされる。
振り返れば、ビジネスを止めるまで、その時、その時を旅人のように通過点として走り続け、形振り構わず、ガムシャラに峠を登ってしまった人生の上り坂だった。今、自身に格別の変化が起きた訳でもない。しかし下り坂を降りるのは、僅かな登山の経験しかないが、登るより難しい。

二十歳の時、三十歳の人々は一体どうやって生きているのだろう、また三十歳の時には五十歳以上の人々はどんな生き方をしているのだろうかと考え、目眩がした。その都度、想像を超えていたからだ。今、三十歳の想像を超えて尚、それ以上生きて何かが分かったと言う実感も無い。
確実なのは、この先、目の前にあるのは下り坂だという感覚だ。時間とエネルギーが無駄使い出来るほど無限にあると思えた二十代、三十代には考えられなかった事だ。

移り変わる花々を見て実感する。「峠を越した」と。
残された時間とエネルギーを測りはじめ、自分に何が出来るかを考える。限界を身に沁みて知り、最早かってのように早くも高くも飛べない事を悟る。過去の自分が時の経過と共に他者に変わり、毎日見知らぬ自分に出合う。

重力に逆らわず、もう少し峠を下ってみよう。幾つになっても人間は変化を続けるし、次々に見たことも無い景色が眼の前に現れる事も、半世紀以上生きてみて知ったのだから。


オフクロの味

2013年03月11日 | ちょっと一言

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                          (海蔵寺/鎌倉)

『オフクロの味』でイッパイ飲もうということになった。

狭い店内だ。八人も座れば肩が隣の人とぶつかってしまいそうだ。カウンターの上の段には肉ジャガ、ひじき煮、キンピラ、切干大根、卯の花、卵焼きなどが大皿に盛られ並べられている。

進学や仕事や結婚などで親元を離れたとき初めて気づく親心。さらに年齢を重ねるほど恋しくなるのが「オフクロの味」だった。
「オフクロの味」は、出身の地域差や個人差が大きく表れ、伝統的な調理方法が継承された家庭料理によって養われる味の記憶だ。また母親の持つ暖かいイメージから生み出される優しさに溢れた味のことでもあった。

昨今、「オフクロの味」と言う言葉は家庭の外でしか聞けないようになった。弁当屋とかコンビニとかデパートの食品売り場だ。
若い世代にとって、これらは親元を離れてから、居酒屋で始めて食べる味であることが多いらしい。しかし実際の郷愁とは無縁のようだ。出来合いの料理に慣らされ、こういった素朴な料理が珍しいだけかも知れない。

現代日本の「子供の頃、良く食べた事のある我が家の味」は、ハンバーグ、カレー、フライドチキン、ピラフ、スパッゲティーなどの、カタカナ系に占められるとある。
それらは手作りではなく、インスタント食品や冷凍食品・レトルト食品などの簡便で半調理済みの「袋もの」だ。それは「オフクロの味」では無く、「袋の味」と言える。

どこの家庭にも数種類の袋が備蓄されている。だから袋さえ見つければ親が不在でも何らかの食事は出来る。しかも、その袋は料理界のカリスマがプロデュースしたものだったり、厳選素材だったり、おまけに家庭では出せない味だったりする。
無理して手作りに拘る必要も無いが、せめて「楽しい食卓」の演出はしたほうが良い。

なるべく一緒に食べよう!それが無理ならせめてメモを添えよう!部屋を明るくして清潔な器に、「袋」の写真より美味しそうに盛り付けしよう!
その一手間で「袋」が「オフクロ」へ、グッと近づく。

お開きにシジミの味噌汁を頂いた。


感動を得られない

2013年03月04日 | 鎌倉散策

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                                                                 (報国寺/鎌倉)

どこかで見た絵葉書みたいだ。

カメラを趣味にするようになり、風景や花の撮影を繰り返し撮っても、これが実に難しいと分野だと思い知らされた。
夕焼けに染まる海や富士山を、また寺社を背景に咲き誇る花の美しい色や季節感を、いとも簡単に写し撮ってくれる。それなのに美しいだけで何の感動も得られない。肉眼で眺めていた時のスケール感や、精一杯生きている花の呼吸が伝わってこない。
幾度となく撮影を繰り返しているうち、何故なのか分ってきた。風景や花は、そのものが美しすぎるために、自分の感情を足し加える事が無理なのだ。もちろんこれは自分がと言うことで、風景をテーマに心象を伝えられるカメラマンは何人も居る。しかし、やはりごく少数だろう。

旧東海道五十三次を歩いた時、広重の東海道の浮世絵が焼き物などにして、どの宿場跡でも掲げてあった。現地で見る絵に感動すら覚えた。風景の一部に腰を下ろし、古の人々に思いを馳せたものだった。

今、改めて机上で絵を観ると、恐らく幾つもの時間が交錯している。その景色に相応しい季節や人の営みを足し加えている。秋雨が似合うと思えば自在に降らせて画面を鎮め、深い雪で覆いたいと思えば白で埋める。あるものを、あるがままに描き、あるもの以上の趣と美しさを見る者に示している。思わず引き込まれてしまう見事な風景の演出家だ。

風景写真講座を受講している教室の講師でもある写真家・原田寛氏は、日頃話す。
『表現手法には正解なしと言う言葉がある。しかし何をしたいのか意図を明確にし、それを技術で裏打ちする。表現部分で微妙な違いを際立てる。写真撮影の根本は、先ず自分が被写体に感動や感激をする事。そして自分が感じた事を写真と言う表現手段で人に伝えたいと思う事』が基本だ。

それが難しい。感性は良い?筈なのに!
いつか誰かが撮った写真と同じ、或いは良く似ているではなく、初めて見るような自分らしい写真を撮り、作者冥利を感じたい。

やはり偶然の出会いのスナップではなく、「心優先モード」で、視点を変え、自分らしい被写体の発見しかないのか。

今日も鎌倉散策は続く。