海側生活

「今さら」ではなく「今から」

海は今日も光っている

2009年07月31日 | 海側生活

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逗子・鎌倉と言うと初夏から夏のイメージがあるがなぜだろう。
逗子・鎌倉は海に向かって開けているからだと思う。
古い歴史を秘めているくせにピカピカと輝いているのはこのせいだ。

関東で一番早い海開きをして早4週間が過ぎた海岸には、思い思いの海の家とカラフルなパラソルと数え切れない人達が小さな波の向こう側に、遠目にも鮮明に飛び込んで来る。一夏で逗子海岸が20万人、材木座海岸が40万人を超す人出があるそうだ。
等と考えながらモーターボートを走らせていると、漁師のブイが正面に近づいてきた。この辺りでの蛸漁は網籠で獲る。沈めた網籠を引き上げるためのロープの目印にブイを浮かべている。ところがブイと言ってもそれは一見ブイには見えない。今正面に近づいてくるのはペットボトルを二個結び合わせたものだ。知らない人が見たらとてもブイには見えない。しかしその下には海底の蛸網に繋がるロープが伸びている。

太陽がやや西に傾きかけている。
太陽はこの時期は富士山を通り越して遥か丹沢に沈むが、まだ落日の色を纏わぬ前の、白いままの光が逆行となって一体を輝かしている。それに向ってモーターボートを進めるとキラキラと光が目に飛び込んでくる。
やがて空は今日も夕焼けに染まるだろう。黄金色、銀鼠・朱色、紅色、茜色・藤色、杜若色-----そして墨。

思わず思う。これらを一枚ずつ鍋から湯葉を掬うみたいに剥がし取り、切り取った夕焼けで、絵が描けたらどんなにステキだろう。人(自分)の力では描ききれない様々な色々、自然が創り出す神々しいばかりの光の帯。

このままキラキラと輝く光を追って、どこまでも真っ直ぐモーターボートを走らせたい衝動を抑えて停止させ、そしてUターンした。

今日も海側生活を満喫し、ベッドに身体を横たえる時、心のキャンパスにどんな絵を描ききれるだろう。
明日もピカピカと輝いていたい。


飛び跳ねるお神輿

2009年07月26日 | 海側生活

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逗子・小坪は正面に海、漁港を構え、背面には緑ゆたかな山を背負い、左右は小さな岬で区切られた入り江の小さな漁村だ。古くは鎌倉の南境・小坂郷としての地域で、史跡も多く静かでのどかな所だ。
「吾妻鏡」に拠れば、源頼朝は伊豆時代の愛妾亀の前を住まわせ、それを妻政子が知る事になり、政子はその家を打ち壊してしまった、また二代将軍頼家が浜遊びをした記録がある。鎌倉の文化圏の一部だった。また昔は亀が産卵のために浜に上がって来ていたし、白鷺が舞う白鷺の浜と呼ばれていた時もあると言う。

ここは舟が出入りする早朝と夕方以外はひっそりとしている。
日中は年寄り達がイスを出して座り、おしゃべりしながら海を見ている。通り過ぎるのは港のお陰で食べ物に不自由しない猫とカメラ片手の自分ぐらいである。湘南全体が破滅的に混雑する真夏でさえ、まるで遠い昔にタイムスリップしたみたいに別の時間が流れているような落ち着いたところだ。

年に一度の天王祭りがやってきた。
この日ばかりは他所で仕事をしている人も、都会で暮らしている人たちも多くが縁者を頼って里帰りする。海に魚がいなくなったと言う大人達も昨日までの厳しい顔付きは誰も見せない。
五人一組で山車に乗った子供達も一ヶ月余りのお囃子の練習の成果を発揮する時だ、目つきが真剣だ、額には汗も出ている。鉦、笛、太鼓が時間の経過と共に大きく鳴り響く。側に付いている大人も子供達の両手に釘付けになっている。
そして夕陽が落ちる頃、今は狭くなった天王浜の近くに各町からの6台の山車が集まる。各町は独特のリズムを伝承している。音も最高に達してきた。やがて各町内をお渡りしていたお神輿も天王浜に帰って来た。

祭り最大のクライマックスを迎える。
天王唄にのってお神輿は浜を所狭しとお渡りするが、唄の継ぎ目で担ぎ手全員がお神輿を担いだまま掛け声をかけながら、何度も跳ね上げる。担ぎ手の顔は真っ赤で汗がほとばしり、跳ねた後、降りた時の肩に食い込む心棒の痛さに顔が歪んでいる。
時間が来て、もっと担ぎたい若衆と早く下ろしたい年寄りの争いとなり壮烈な攻防を演じる。最後はつぶされて終わり、お神輿は天王浜にある御仮屋に安置される。お囃子はそのまま夜まで鳴り響き、本祭の余韻を残す。
これから一週間に渡り歌や踊りが天王様に奉納される。

海側の田舎生活も格別だ。
自分はこの生活を始めるまで東京の喧騒の中にいて、一時間刻みで仕事をしてきたが、ここでは時間が止まっている、いや動いてはいるが、それが見えない。
これまでは何を「するか」と考えてきたが、これからは更に何を「しないか」と考えたい。


伸びたうどん

2009年07月17日 | 感じるまま

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都心には度々出掛ける。

人生とビジネスの中締めをして海側生活を始めたとは言え、これまでのビジネスから発生する様々な用で、週に23回は出掛ける。

先日も渋谷のある会社を尋ねた際に、60歳になったばかりの社長が「現役をリタイアした人はうどんのようになる人が多い」と言った、目の前に閃光が走ったような気がした。

伊勢うどんみたいにふんわりと柔らかい美味しいものもあるが、言われてみれば報道で知る限り、首相や大企業の社長などが第一線から退くと、とたんに好々爺や人の良いオジサンの顔になってしまう。その顔も諸行無常、驕れる者は久しからずの悟りを開いた高僧のようで味があるが、現役時代の意欲満々で野心的な脂ぎった顔に比べて、いま一つ締まりがないように感じられることがある。

確かに都会は海側生活と比べてみると、磯の香りに対し排気ガスの臭気、緑の椰子の木々の代わりに多くの様々なビル、光る海面に対し行き交う車のライトや多様なファッション、潮騒に対し車のクラクションや人の声、潮風の代わりに一時間も居たら鼻の中が黒くなるスモッグ等が溢れているのが現状だ。

しかし都会は毎日がお祭りのようでビジネスを始めあらゆる事の集積地としての機能を持ち合わせていて、健康な人には昼夜を問わず途方もないチャンスが両手を広げて待っている、もちろん得体の知れないピンチの方がはるかに大きいが。 

確かに自分もスモッグに汚れ騒音に満ちた都心に身を置くと思わず「我が街だ」とホッとする。

テンションが高くて、人間の呻き声や体臭が迫ってくるような都心のほうが本来は性に合っているのかも知れない。

誰かが言っていた、「深海魚は浅海に住めない」と。高い圧力に慣れたものには、圧力が弱くなったり、無くなったりすると生きていけなくなるのであろう。激務、激職にあった人達がリタイアすると、何となく浅海魚の顔に似てくるのかも知れない。

海側生活は不便な事が多い。この不便さが、長く沁み込んだ都会生活の垢みたいなものを洗い流し、そして再び自分の心身を鍛えてくれていると思う。また正気に戻してくれているのだと思う。そして、あるべき姿に仕立て直してくれているのだと感じる。

伸びたうどんならぬ、“コシ”のあるうどんでいたい


新島釣行

2009年07月10日 | 魚釣り・魚

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恒例の新島釣行だ。
高速ジェット船が港に着くと、少しは年を食ったと感じさせる風貌で、相変わらず元気な日焼けした釣り宿のオヤジさんが車で今回も迎えに来てくれていた。この会は10年近くも回を重ねているが、勝手を知っている我が家みたいな処で早々に準備した大学同窓の7人のメンバーは、時々聞き取り難い方言で話すオヤジさんの最近の釣果を聞きながら港に向った。

釣果は全体で鯛が60cm級を頭に12枚、30cmクラスのイサキが60匹、その他外道が多種20匹と結構忙しかった。
遅い夕食時でも、このメンバーでの集まりは久し振りで話も弾んだ。しかし皆お酒の量は少なくなった。
オヤジさんから、明日は天候不順なため舟を出すのは無理だ、と伝えられた。
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帰りの午後一番の出航時間まで改めて島内の歴史散策をした。
様々な旧跡の内、為朝神社でその雰囲気に足を止められた。

源頼朝が鎌倉幕府を開く25年前、頼朝・義経の叔父にあたる源為朝は保元元年(1156年)皇位継承に絡んで京で起こった保元の乱で敗れ、二度と弓を引けないように腕の筋を切られて伊豆の大島に流された。

しかしリハビリ?をした為朝は自慢だった弓の力を試したくて伊豆の大島から鎌倉・光明寺の裏山の天照山を目掛けて矢を放ったところ、現在の逗子と鎌倉との境界線上にある海際の道にある「矢の根ノ井」に落ちたと言う。

大島の後、新島に渡り妻をもらい子供を授かったが、刀と2幅の絵を残し、神津島・三宅島・御蔵島・八丈島へと現在の伊豆七島全てをことごとく配下に治めたと言う。
新島の為朝神社に存在する鏡を支える木の台が不思議な形をしていた。

そして八丈島では二人の子を成したが、討手に攻められ八丈小島で自害して果てた(32歳)との伝がある。

釣行の合間にそれらを尋ねたが、各島には様々な伝説が残り、各地に伝説が流布している。
大島には屋敷跡が保存されており、新島・八丈島や横須賀・韮崎等には為朝神社が存在し、その祭礼も毎年行われている。

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興味が尽きないのは源為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王・舜天になったとしている伝だ。
また大島から為朝が射た矢が落ちたとされる「矢の根ノ井」は「六角の井」とも呼ばれているが、井戸は八角形で鎌倉側に六角、逗子側に二角ある。 
歴史は興味が尽きる事が無い。

当初から会の代表を担い、全ての事に常に細かい部分まで気を遣って頂き、釣りは名人級で我が師匠、傍若無人ならぬ心根が優しく笑顔が絶えないS.Nさんには頭が下がる、ただ感謝です。
来年も又、新島に来たい。


虹を見た

2009年07月07日 | 海いろいろ

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久し振りに今朝、虹を見た。

今にも消え入りそうな儚い色をして、海面のやや上から右上に掛けてちょうど円の真上辺りで虹は消えている。このまま延びれば箱根連山、富士山をすっぽり包んでしまうであろう所に架かった虹だ。従来ならばあるだろう形の右端に目をやると、そこには同じ色をした虹が少しだけ顔を覗かせている。思わずシャッターを押した。

飽きずに眺めているとやがて微かに差していた太陽の光は殆どなくなり、厚くしかも低い雲が一面に現れてきた。そして虹は消えた。そのうちに霧が見る見るうちに漂ってきた。ベランダに立つ自分にも霧がまとわり付き、顔に水滴が付き唇も湿ってくるのを感じる。空と海との境も完全に見えなくなってきた。先ほどまで見えていた沖の釣り船も全く見えない、数十メートル先の堤防すら見えなくなった。鳥すら飛んでいない。

反対側のベランダから外を見ると、南から霧がかなりの早さで山裾を縫うように流れていくのが見える。100メートルの高さの裏山も殆ど見えない。時々、鶯の鳴く声だけがどこからともなく聞こえてくる。

まるで夏の高原で朝を迎えているような雰囲気の眺めだ。

30分も経った頃、又薄日が差してきたかと思うと、徐々に霧も晴れてきた。

こんな梅雨もあるのか、と思う。

沖に目をやると白波が立ち始め江ノ島も見え始めていた。

海側生活は今日も時間ごとに変化する、飽きる事がない。