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(夜明け/小坪)
北条政子は日本史上、日野富子や淀殿と並ぶ三大悪女と一部の文献では言われる。実家の利益のためには我が子さえも見捨て殺していると。
寿福寺に久し振りに詣でた。古いお寺で参道の敷石道が特に良い。鎌倉駅から10分と歩かないのに、静寂で浮ついたモノを全て鎮めてしまう。
ここには源頼朝が亡くなった時、妻の政子が墓所を立てた。また本堂の裏側に政子の墓地もある、次男の実朝の墓地と並んで。
墓地にはまだ蕾のままの梅の切り枝が供えてある。お参りするのは何度目だろう。『吾妻鏡』に何度も文中に出てくる政子は世に言う悪女だったのか。寿福寺に来るとつい墓地まで足を延ばしてしまう。
『吾妻鏡』の記述の内、政子の家族に関する部分だけを政子の歳順にまとめてみた。
20歳 中世を開く鎌倉幕府を成立させることになる30歳の源頼朝と出会う。
21歳 長女・大姫の誕生
25歳 長男・頼家(後の二代将軍)誕生
この妊娠中に夫・頼朝の寵姫・亀の前の小坪の屋敷を打ち壊した 政子の嫉妬深さは一夫多妻が当然だった当時の女性としては異例であった
26歳 大姫6歳の時、対立していた源義仲と和睦し長男・義高(11歳)が婚約と言う名目で鎌倉に来る。
幼いながらも大姫は義高を慕うようになる。しかし和睦はならず義仲は討たれる。頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決めるが、これを侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させるが、数日後斬られる。
大姫は悲嘆の余り病の床につく。政子は義高を討った為に大姫が病になったと憤り、夫に強く迫り義高を討った者を晒し首にしている。
その後心の病になり、長く憂愁に沈む身となった。以来どんな縁談にも義隆を慕うばかりで、首を縦に振る事はなかった。19歳で死去
29歳 次女・三幡誕生
静御前と義経との子の命乞い 1186年
義経を慕う歌を詠った。これに義経を追討中の頼朝は激怒するが、政子は流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」ととりなした。政子のこの言葉に頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えた。
しかし生まれた男の子は、政子と大姫の助命も叶わず由比ヶ浜に遺棄された。
35歳 次男・実朝(後の三代将軍)誕生
39歳 大姫死去
42歳 夫・頼朝死去
次女・三幡死去 高熱を出し憔悴して、目の上が腫れる異様な様子となる 夫の死後4か月後だった。
47歳-長男・頼家暗殺される
63歳-次男・実朝暗殺される
64歳 承久の乱 政子の「言葉」
頼朝の死後に起きた承久の乱で朝廷と幕府の争い時に、動揺し集まった御家人に対し『故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い。恩を知り、名を惜しむ者は不忠の者を討て。ただし、朝廷側に付きたい者は直ちに申し出て参じるがよい』との声明を発表。御家人達は、ただ涙を流し報恩を誓った。
67歳 死去
夫や子供達には皆先立たれ、その生活の中で普通に悲しんだり喚いたりしている。やはり伊豆の田舎娘の普通の感情や考え方を持ち続けていた。あの1180年(承久4年)の変革期に巡り合わなかったら、政子の名前などは残らなかっただろう。しかし歴史の流れが彼女の姿を浮かび上がらせてしまった。
悪女とは思いたくない。