( 夜明け直前/小坪より)
『今朝は寒かったですね』
床屋の椅子に座るなり、いつもの顔見知りとは違う、やや若いオジサンが話しかけてきた。
『寒さが頭から染み入ってくる、だからあまり短く刈らないで!』と応じると、鋏の音も軽やかにオジサンは話し始めた。
『個人差はありますが、我々日本人には頭皮1平方cm当たりおよそ250本ほどあるそうです。だから全体では10万本はあることになります』
『俺にはその半分ぐらいしかないのでは?』
問いには直接には応えないで
『成長の速度もやはり個人差があるようですが、およそ一年に11 cm伸びますから、一日では 0.3 mmぐらいです』
『ヘエ~』
『しかし、忘れていけないのは10万本あることです。全体では一日に30メートル、一年では11キロメートルも伸びているのです。体のどの部分を探してもこれほどの成長を見せる箇所はないと言われます』
プロとは言え。よく自分の道を勉強しているなと感心しながら、ただ聞き入っていた。
更に洗髪、食事、酒とタバコとの関連など、彼は手を休めることなく熱心に話してくれた。ある時期、夢中で研究したに違いない。
暫く間があり、
『しかし、ある時期には諦めも大事ですよ---』
やがて作業も終わり、少なくなったと感じる鏡に映る自分の頭を見ながら立ち上がった。
『今日は有難うございました』とオジサンは丁寧に帽子を脱いで頭を下げた。
目の前には天井の蛍光灯の明かりが反射している眩しい頭があった。なんとツルッ禿だった
『今朝は寒かった、頭がシモヤケを起こしそうだった』オジサンは笑っていた。