海側生活

「今さら」ではなく「今から」

2019年03月31日 | 季節は巡る

          (浄智寺/鎌倉)
やっと春が来たと言う事を実感として感じるのは、人間、ある年を経てからではないか。

日一日と暖かくなってきた。裏山を見ても、一週間ぐらい前までは気が付かなかったが、山肌の一部分に枯れ木に交じって、樹の全体に白っぽく花が見て取れる、山桜だ。改めてその樹の左右にゆっくりと眼をやると方々に白っぽい花を付けた樹が点在している。

以前も書いたが、柄にもなく西行法師の歌を思い出して苦笑する。『願わくば花の下にて春死なむ その如月の望月のころ』。一時期、夢中になって西行法師に関する書物を読み漁った。その頃はただ良い歌だと思ったに過ぎないが、今は自分の夢である。夢のまた夢かもしれない。

桜の頃になると、気もそぞろにカメラ片手に寺社仏閣を歩くのは、儚い夢を追っているからに違いない。

散らない花は花ではない、枯れない花は花ではない。散るから花と言う、枯れるから花と言う。切なさと限りが入り混ざり 満開の一瞬を花は永遠の美に変えるのだ。特に桜にそれを感じる。

今年もまあ元気に桜を見ることが出来た。来年は果たして---。思うことは毎年同じである。
ちっとも進歩しない。しかし桜に限り、これで良いのではと思う。

若者の門出に

2019年03月19日 | 感じるまま

(報国寺/鎌倉)
人は100歳まで生きるようになった。
100年とは一世紀だ。大変な長さだ。こんなに長く生きる時代に、二十歳そこそこ、つまり全人生の五分の一しか生きてきていない若者たちが、社会に押し出され、一人で世間を渡って行かねばならないのかと思うといかにも大変だ。

残された人生は80年かーーー。“残された“と言う表現は適当でないかもしれない。いやそれがそうでもないかもしれない。社会に飛び出す前の、つまり就学期は、人生は未来の彼方に永遠に輝いていると思える。しかしいったん社会人になった時、人生は有限な、惜しんで使うべき時間に変化するのではないだろうか。
そう感じさせるのは先ず世間の常識だ。まだまだ日本社会では、特に女性は、そろそろ結婚した方が?と言う周囲や自分の内なる声が聞こえてくる。結婚して子供を産めば、子供が人生を刻んでゆく。勿論、結婚したり子供を持つことなく、生涯仕事に生きる女性にとっても良く似たことが起きる。今日中に、今週中に、今月中になさねばならない仕事や約束事に追いかけられる。仕事が人生を刻み、次から次へと時間を消費してゆく。そして人は遅かれ早かれ気が付く。「あぁ、私の人生がどんどん少なくなっていくーーー」と。
学生だった頃は、人生を創り出していた気分だったのが、社会に出てからは、消費する気分に移ってしまうことになる。本来なら生まれた時から消費は始まっているが、一人前になる前には、そのことを忘れている。

大人として旅立つ時、先ずこのことを肝に銘じるべきだ。これから人生が少しずつ減ってゆくのだと。
これは悲観でない。大人になると言う事は、この現実を常に心のどこかに置いておくことでもある。

そんな事を。しかしまるで考えもしない、想像したことも無い若者たちが何と多いことか。何も考えないで三十台半ばまで来てしまった“元若者”もいる。それでも男性は会社の中に取り込まれ、仕事をこなす歯車として働き、人生が目減りしていることに気が付かないで済むかもしれない。しかし男性ほど組織に帰属していない女性たちは、突然発見することになる。「あら、自分の人生が減ってしまっている。でも自分は何をしてきたのか!」この手の悩みの何と多いことか。

かけがえのない人生の経験を無自覚に生きてきたのが分かる。今日の一日は消費されて無くなる一日だと自覚がないまま三十代半ばまで来てしまったということらしい。
これでは客観的にどんなに恵まれた状況を生きても、熱のこもらない、また感動の無い人生になってしまう。

“贈る言葉”を書きたかったのに、お説教臭くなってしまった。

山、人を見る

2019年03月12日 | 鎌倉散策

(東慶寺)
パソコンを見つめる目をしばし休めさせたくなった。椅子を回転させ背中側の窓から、やや離れたところに雑木林の小高い山が見える。
雑木ながら大きく育って梢を上に伸ばしているものや縮まるように枝を横に広げているものがある。まだ落葉したまま白い枝をむき出した樹もあれば、枝先にうっすらと新芽を出し始めた樹も見える。また常緑の葉を茂らしている樹もある。樹々は共生しているように見えるが、そこに生きて育つためには共に精いっぱいの力を奮って競い合っている。
ふと思う。競い合っている樹同士がお互いに自分の姿を見合ったら、いったいどんな想いを持つのだろう。

春一番が吹いた翌日、東慶寺に行った。
広くはない境内には名残の梅の他、三椏(ミツマタ)やラッパ水仙や山茱萸(サンシュユ)の他、緋寒桜や白木蓮なども色とりどりに蕾を膨らし始めていた。
あまりの可愛らしさに思わず「今年も咲いたね」と声を掛ける。帰ってくる返事に期待をかけるが、当然何の返事もない。しかしこの時は花から見られている感じがした。

「山、人を見る」という言葉を思い出した。大智禅師の言葉だと思うが、山を見ても花を見ても、その度に自分が見ているものから見られている考え方だと記憶している。自分は自分であるが、その自分には、見られているもう一人の自分があると言う事だ。花を見て可愛いと思う自分が、花の方から眺めて、果たして可愛いと見えるのかどうか。まして山のような巨大なものから自分が見られるとしたら、その見る目はきっと厳しい。

雑木林の樹々からも、草花からも常に自分は見られていると思うと、自分に納得が出来る自分でありたいと願う。