海側生活

「今さら」ではなく「今から」

記憶の繋がり

2013年04月16日 | 思い出した

Img_0042

                     海蔵寺(鎌倉)の前庭にて

昔聞いた歌が流れてきたり、ある匂いが突然鼻先をかすめた時、人は一瞬、自分を持ち去られたように放心するものだ。

家に居て何かをしている時、また昼夜を問わず街を歩いている時であれ、手や身体を休める事はないものの、心は瞬間別の色に塗り替えられてしまう。

心が染められるのは記憶や過去の力による。
だから、そうした一瞬は歳を重ねるほど多くなるのかも知れない。ここ漁港の通りでも、お年寄りが何をするでもなく、遠くを見る眼差しでボンヤリと腰を下ろしている。きっと、心の中を鮮やかな過去に占められているに違いない。

ところがこうした過去も、時間の経過か気候に依るのか、或いは自分の健康状態に依ってなのか自ずから選択され淘汰されるらしい。
最近は、石原裕次郎の歌を耳にすると、きまって新宿西口の小便横丁(今は思い出横丁と言う)が眼に浮かぶ。裸電球の下に、串刺しの焼き鳥の濛々とした煙、酒や下水などの匂いが入り混じった独特の臭いと喧騒。
彼の歌は銀座や港をテーマにした歌が多いが、何故だか小便横丁が頭の中をかすめる。

木蓮の匂いに触れると、それが直ちに郷里の風景と学校の側の小川に直結する。卒業をまじかに控え、今後進路も生活をする土地も違ってくる、お下げ髪のガールフレンドとの別れの時が迫っていた。その時は花の名前も知らなかったが、小川の側には白く大きな花が咲いていた。

「石原裕次郎」や「木蓮」には、他にも様々な過去が絡みついている筈なのに、いつからか、また何故、小便横丁やお下げ髪に直結するのか分らない。

こうして自分には様々な組み合わせの形が出来上がっている。
朝顔にはラジオ体操、バラには母親の笑顔、鶏には弟の恐怖に怯える顔、納豆にはゲロなど。

不思議だ。歳を重ねるにつれて成長時代と郷里の思い出が心に浮かび上がってくる。
人間は皆、そうなのであろうか。


昼下がりの会話

2013年04月09日 | 興味本位

Photo_2

                   (花まつり/建長寺・鎌倉)

何となく気だるい。
昨夜の、散り急いだ桜の話が尾を引いているのか。

一人が言う。二三分咲きの頃は胸がトキメク、それからの二週間ぐらいは毎朝が愉しみ。もう一人は、やはり咲き誇った時が最高だ、自分の絶頂時に重ねて観てしまう。他の者は、風に散る桜吹雪はまるで人生を思わせる等と皆がそれぞれ。酒もすすんだ。
やはり我々は桜を好きなのだ。咲いてもやがて散り、夏が始まる頃には、ただ茂る葉だけになってしまう。その頃になると、あれほど夢中にさせ、ココロを躍らせた花など忘れてしまう。そこにある桜の木の存在さえ誰もが忘れてしまう。
酒がすすんだ。

駅前の本屋に寄り、その足で蕎麦屋に入った。サッパリとするものが欲しかった。

スーパーの帰りだろう、夫婦と思しき二人が、両手にレジ袋を提げ、店に入って来た。ガサバシャと音が鳴っている。隣の席に二人に座った。
注文が終わった頃
『168だって!』男性が呟くように言う。
『そう、50ぐらい高いの』女性はレシートを小物入れに整理しながら返事をしている。
『う~ん』
『もう一つの店は、もっと高かったよ』
『違うよ!俺の血圧の話だよ』
『何だ!それくらい平気じゃない』
『-------』

暫く間があった。
『お前は最近、外出する時しか、イクと言わなくなった』
『-------』整理の手が止まった。返事は何も聞こえなかった。

春は何となく気だるい、そしてのどかだ。


花散らしの雨に

2013年04月03日 | 季節は巡る

Photo

                                                        (浄光明寺・鎌倉)

傘をたたむ時、花びらが五、六枚付いていた。
今日の花散らしの雨に打たれたサクラの花びらだ。

つい、先週の早朝の桜。
朝日が昇るか昇るまいかと思案しているような時間帯には、晴れていても曇っていても、雨降りでもヒンヤリとして寒い。
そんな冷気に包まれたサクラは心なしか弱々しいし、とても儚げに見える。寒さが気持ちを少しばかり消極的にさせているから、そのように見えるのかも知れない。そうした頼りなさげな表情を見せるサクラが愛おしい。
儚げに見えたサクラに朝日が当たり始めると、とたんに雰囲気を変える。青々としたサクラにピンク色が差し、頬を染めた乙女のような表情になる。
そんなデリケートな一瞬はたまらなく魅力的だ。朝の射光を全身に浴びて輝くサクラは神々しくて刺激的だ。

二三日前の昼間の桜。
今まさに最後の舞を舞っている。
散り残ったサクラの花が生暖かい風に乗っている。
一時は見渡す限り歩道まで染めた桜吹雪の凄さは無く、ホロホロと疎らに散る花びらは、むしろ裏寂しい里の風花を思わせた。ボンヤリと花の軌跡を目で追っていると、花びらが「今」と「昔」を一筋の白い残像で繋いでいる気がしてくる。花を離れ、細かく線になり、ツッと川面に着水するまでの、ひどく緩い数秒間、それが何年もの時の移ろいにそのまま重なってくる。

何時の頃からだろうか。花や月の美しさに巡り会うと、来年はこの花も月も見られないかも知れないと、フッと思う癖が付いてしまった。

誰かが言っていた。
『不安を忘れている時こそ、最も不安な時である。むしろ不安を見据えている時の方が微かな安らぎがある』

傘に付いた花びらを一枚づつ指で取り上げ、大きな皿に水を張り、五枚の花びらを桜の花の形に浮かべてみた。

今なら、この安らぎに素直に言える、『ありがとう!』と。