海蔵寺(鎌倉)の前庭にて
昔聞いた歌が流れてきたり、ある匂いが突然鼻先をかすめた時、人は一瞬、自分を持ち去られたように放心するものだ。
家に居て何かをしている時、また昼夜を問わず街を歩いている時であれ、手や身体を休める事はないものの、心は瞬間別の色に塗り替えられてしまう。
心が染められるのは記憶や過去の力による。
だから、そうした一瞬は歳を重ねるほど多くなるのかも知れない。ここ漁港の通りでも、お年寄りが何をするでもなく、遠くを見る眼差しでボンヤリと腰を下ろしている。きっと、心の中を鮮やかな過去に占められているに違いない。
ところがこうした過去も、時間の経過か気候に依るのか、或いは自分の健康状態に依ってなのか自ずから選択され淘汰されるらしい。
最近は、石原裕次郎の歌を耳にすると、きまって新宿西口の小便横丁(今は思い出横丁と言う)が眼に浮かぶ。裸電球の下に、串刺しの焼き鳥の濛々とした煙、酒や下水などの匂いが入り混じった独特の臭いと喧騒。
彼の歌は銀座や港をテーマにした歌が多いが、何故だか小便横丁が頭の中をかすめる。
木蓮の匂いに触れると、それが直ちに郷里の風景と学校の側の小川に直結する。卒業をまじかに控え、今後進路も生活をする土地も違ってくる、お下げ髪のガールフレンドとの別れの時が迫っていた。その時は花の名前も知らなかったが、小川の側には白く大きな花が咲いていた。
「石原裕次郎」や「木蓮」には、他にも様々な過去が絡みついている筈なのに、いつからか、また何故、小便横丁やお下げ髪に直結するのか分らない。
こうして自分には様々な組み合わせの形が出来上がっている。
朝顔にはラジオ体操、バラには母親の笑顔、鶏には弟の恐怖に怯える顔、納豆にはゲロなど。
不思議だ。歳を重ねるにつれて成長時代と郷里の思い出が心に浮かび上がってくる。
人間は皆、そうなのであろうか。