海側生活

「今さら」ではなく「今から」

夕焼けが見えた次の日は

2017年10月25日 | 海側生活

(小坪海岸より/逗子)
台風一過の秋の空は空気が澄み、空が高く夕焼けが美しい。また日の長かった夏から徐々に日没が早くなっていくため夕焼けをとくに意識してしまう。
ここから見る夕焼けは西の空一面が焼けるように橙色や朱鷺色や茜色や金色で埋め尽くされ、今まで見えなかった富士山も雲の中からシルエットになり浮かび上がってくる。とても幻想的な光景である。どことなく寂しい気分になったりもする瞬間だが、あの美しい夕焼けを嫌いな人はいない。

船に乗らなくなって、すでに20年は経ったという元漁師さんの短い言葉を、また途切れ途切れの会話をまとめてみた。老漁師は夕方近くになると浜小屋の、いつも決まった海側の椅子に座り、何もせず、まるで修行者のように動かず、海に顔を向けている。

「夕焼けが見えた次の日は晴れ」とこの浜では言われている。これは、一般的に天気は西から変化してくるので、日が沈む方向である西の空に太陽を隠すような厚い雲がなく、空が夕焼けになっているときは、その翌日も晴れるというなんとも単純な理論。ここから見て富士山まで厚い雲がないのは、雨を降らせるような雲がないことを物語っている。富士山まで雨雲がないのであれば、まあ、よほどのことがない限り翌日は晴れると思ってよい。

しかし、これには明らかな例外がある。富士山までのどこかに厚い雲がある場合だ。この場合、当然この厚い雲は雨雲で雨を降らすこともある。曇りや雨になる夕焼けもあるのだ。例外となる場合の見分け方は二つ。「赤黒い夕焼け」と「夕日の高入り」だ。
「赤黒い夕焼け」は、富士山までのどこかに雨雲がある場合に発生する。雨雲がない場合の夕焼けは、西の空が橙から次第に赤くなるように空全体を焼きながら、徐々に濃い青色の夜空に変化していく。しかし雨雲がある場合、高い位置にある雨雲は底が赤く焼け、低いものは夕日を途中から覆い隠し、夕焼けが「赤黒い」色に変化してしまう。この「赤黒い」夕焼けが発生した場合は、西から雨雲がやってくるということを物語っており、翌日は曇りや雨になる可能性が高い。
また「夕日の高入り」は、夕日が高い位置で隠れてしまう現象だが、富士山付近に雨雲がかかることによって起こる。雨雲によって光が吸収され、山の稜線よりも高い位置で夕日が隠れてしまったように見えるのだ。この場合も、この雲が翌日には雨を降らせる結果になってしまう。

夕焼けに染められた海の静寂に耳を傾けると心が落ち着く。

風もそよがず、波も立たず、刻々と変わり行く夕焼けを眺める、この瞬間ほど追憶と瞑想とに適した時間はない。

秋の七草もすでに花は散り、ススキだけが微かな風も無いのにソヨと穂をなびかせている。

泣かない女

2017年10月19日 | 鎌倉散策

   (光明寺大聖閣/鎌倉)
楽しいオネェさんだ。酒の席で、偶然に隣り合わせた自分との会話を楽しんでいる。
「女とは」を諭され、また「男の本音」について、今も迷っていると言う、妙齢のオネェさんの話は続く。

昔から女に涙は付き物と考えられてきた。
勇猛果敢な女は勇猛果敢な涙を奮って男を屈服させ、臆病小心な女は小心のシクシク泣きで男を懐柔する。馬鹿垂れのクズ女は馬鹿垂れクズの涙をメソメソ流して男への恨みやつらみを四方八方へこぼして人の同情を引き、他人の助けを借りてかろうじて身を守ろうとする。女は涙が人生の武器だと言う事を本能的に知っている。

男は泣く女が好きなのよね。と何かを思い出しているようだ。目が遠くを追っている。
女の涙を見て心が動く。労わろう、守ろうという気になる。一方、危急の際にも、涙一つ見せず踏ん張り、男に頼らず立動かれると、男は楽した上に可愛げがないと捉えてしまう。泣く女がいいか、泣かない女がいいかと問われたら、泣かない女がいいと答えは決まっている。
しかし泣く女がトクか、泣かぬ女がトクかと聴かれれば、泣く方がトクに決まっている。そのためか泣く女は後を絶たない。

だが女が涙を見せれば男の心は動くというが、女は女でもバァさんが泣くと男は舌打ちする。それが又一層腹立たしいく情けない。オネェさんは一瞬、しかめっ面をしたかと思うとグラスの酒をチビッと口に運んだ。

誰かが言ったのか、或は何かの本で読んだのか忘れたが、オネェさんの話に耳を傾けながらこんな言葉を思い出していた。
『自分の思い通りに生きようとすると、必ず誰かを傷つけなければならない。傷つけることのできない人は改めて妥協する。そのどちらかだ、人生は』

でも口には出さなかった。オネエさんは充分に分かっている。

男の本音

2017年10月10日 | 鎌倉散策

 (シオン/海蔵寺)
オネェさんは今日もグラスで日本酒を飲んでいた。カウンターだけの小料理屋さんで。
妙齢の割に白い肌には艶があり、頬がホンノリと桜色に染まっている。

「全く男はいくつになっても女が理解できないのだから」と、かって、「女とは」を諭された、離婚して30年経ったと言う妙齢のオネェさんに久し振りに出会った。
あの時は「アンタも覚えておきなさい!」と、まるで幼子を諭すような口調で教えの数々が続いたのを思い出した。
今回もオネェさんが話を切り出した。
年下の子に相談を受けた。その子は、夫と意思の疎通がうまく計れないで、生活の全てがイヤになってしまうと言っている。
だから教えて上げた。
男の本音と言うものは
「これは男の話だ」--合理的な説明は出来ない、女にとって許しがたい行動をした時、男が言い訳に使う。
「夕食の準備を手伝おうか」--なんでテーブルに食事が出ていないんだ?
「ちょっとユックリしろよ、君は働き過ぎだ」--掃除機の音がうるさくてテレビの音が聞こえない。
「僕は家事を分担しているよ」--身体を拭いたタオルを洗濯籠の側に置いたことが一度だけある。
「最近、身体を動かすようにしているんだ」--リモコンの電池が切れただけ。
「良いドレスだ」--キレイなオッパイだ。
「疲れているみたいだね。マッサージしてあげよう」--今から10分位内にセックスしたいんだけど。 
さらに「愛しているよ」--セックスしよう。

アンタはどう?思い当たることはある?と、グラスを持ったままオネェさんが顔を自分の方に向け、真っ直ぐに見て聞いてきた。
迷いながら、いくつか身に覚えがあると答えると、やはりそうかとばかりに納得したように一人頷いている。

でもオネェさんは年下の子に相談を受けたと言ったけど、全てがイヤになっているのは、オネェさん本人ではないのかと思う、勘ぐりか。

男は女を理解できないし、女も男を理解できない。しかしこの事実を男も女も永遠に理解できない。