海側生活

「今さら」ではなく「今から」

切り拓く

2016年01月29日 | 鎌倉散策

                (材木座海岸より)

鎌倉には切通しが七つある。切通しとは、トンネルのように中をくり抜くのではなく、山を切り崩して開いた道の事だ。

長谷から稲村ケ崎へ抜ける道も切通しだ。古い年月を経た道は昼も何となく暗く、土手部分には苔生している。道幅も狭い。さすが舗装はされているが、高い所で20メートルはあるだろう山の切り口は無粋なコンクリート類は一切使われていない、自然のままだ。大寒の中で山肌には蜜柑がたわわに実ったり、紅梅が咲いていたりする。

この切通しで一番高い所に位置する極楽寺は750年を超す古い寺だ。開山は東大寺の忍性上人で真言律宗の格式ある寺だと『吾妻鏡』にも記載がある。当時は広い寺領を持ち東海道筋の名高い寺であった。現在は目の前を江ノ電が走り、ややせせこましく感じるが、茅葺の山門は落ち着いた風格を漂わせている。山門を潜り桜並木の参道を進むと、本堂の前に忍性が薬作りに使ったとされる大きな石鉢と石臼がある。その横には桜の古木があり、一本の木に八重と一重の花が咲く。まるで人も人生も様々と諭しているかのような風情の記憶がある。境内は写真撮影禁止のお寺だ。
建立したのは北条重時だ。本尊は阿弥陀如来で宿坊の中には悲田院や施薬院もあったと言う。極楽寺が他の寺と異なる大きな特色は無料の診療所とも言うべき、孤児や身寄りのない老人・病人また貧民の救済施設などの病養施設が多かったことである。
この極楽寺への切通し道は、様々な人々がそれぞれの念願を持って通ったのではと推測する。

緩やかな坂をダラダラと降りて行けば、突然道は大きく海に開ける。白波が立つ七里が浜の眩い海が目の前に広がる。波の向こうから富士山が迎えてくれる。心理的にも心配事を祈願して寺を出ると、間もなく波立つ海の青さにキラキラと明るい希望が湧いてきたかもしれない。一度暗い道を歩いて、それから明るい道に出る。人生に似ている道だと思うのは自分だけだろうか。

極楽寺に限らないが、七つの切通しを全部歩いてみて、今感じることだが切通しを通り抜けると全ての切通しは平坦になり明るくなる。切通しと言う言い方には、道を切り開いたと言う意味と、人生を切り開くと言う解釈があっても良い。

トンネルよりも切通しと言う言い方に何となく人間の味を覚える


奥さんからの手紙

2016年01月24日 | 思い出した

                     (海蔵寺/鎌倉)
不意打ちを食らった。

やや遅れて配達された年賀状の中に旧友が亡くなった事を報せる「寒中お見舞い」が二通あった。二通とも差出人は奥さんの名前だ。

Nさんとは郷里の高校時代に同じバスケット部のフォワードとしてコートを走り回った。特にNさんとは阿吽の呼吸でパス回しが出来た。試合では部員は少なくチームは弱かったし、何も特筆すべきものはない。ただ奥手だった二人は好きな女の子の話も尽きることは無かった。卒業後の進路や将来の夢などを夜通し語り合う日もあった。

Aさんとは大学で同じクラスになったのが縁で、長崎弁しか話せない上京したばかりの自分に東京弁との違いを面白く教えたり、 関東一円の観光地を案内したりしてくれた。中でも横浜の自宅に度々夕食に招いてくれ、常に腹を空かせていた自分には堪らなく嬉しかった。家族の皆さんの温かさもホームシックを和らげてくれた。家族の皆が使っていた語尾に「―――ジャン」って言う横浜独特の言い方が今でも自分にも受け継がれている。横浜ジルバを教えてくれたのも彼だった。

埋めようのない空白がココロの中に漂い、やり場のない寂しさだけが残った。

八年前の病気の発見時にその刻の覚悟は出来ている。しかし思いの他、遠くまで来てしまった。今、未知の世界に居る感覚だけがいつも想いの中にある。

死はどんなに覚悟をしていても不意打ちにやって来る。それも背後からの---。背後からいきなり来る死に対して、誰が万全の備えなどできるだろうか。

お寺カフェの温かさ

2016年01月18日 | 鎌倉散策

暖冬の予報はどこへやら、冷え込みが厳しい。

ひと群れの水仙が咲くのを撮りに出掛けた。
底冷えが足元から体中に伝わってくる。まるで日本海を思い出させるような濃い灰色の雲が空を覆い、粉雪が舞い散り始めるかもしれないと身構える。
早々に切り上げ、何か温かい飲み物が無性に欲しくなった。

小正月を過ぎても北鎌倉駅近くは混雑しているが、奥まったここまではその喧騒も届かない。ピンと張り詰めた冬の空気だけが境内にも沁み渡っている。
円覚寺の一番奥まった所にその庵はある。苔生し蔦が這う石垣の上のミツマタの蕾に導かれるように、10段も無い石階段を三回、左、右に上ると可愛い門がある。入口で置かれている鈴を鳴らして待つ。上り口にはいつもこの庵独特の生け方をした花が飾ってある。着物姿に割烹着を着た色白の女性ににこやかに出迎えられる。コロコロと弾くような明るい声に気持ちもホッとする。テーブルまで案内する女性の白足袋が眩しく目に飛び込む。

庵の本堂は庭に面して幅の広い廊下があり、そこには大きなガラス窓から明かりが差し込んでいる。その和風カフェは庭に向かって、テーブルを横一列に配置してある。先客は若い白人男性一人だけだ。彼は背もたれに身体を預け、長い間、視線を庭に向けたまま身じろぎ一つしない。
先ず運ばれてきたのは焙じ茶だった。

丁寧に手入れされた庭には、薄赤色の山茶花が咲き、椿も濃緑色の葉の中に顔を覗かせている。 色濃い小さな紅い花が真っ直ぐ伸びた枝にビッシリと咲いている。聞けばギョリュウ梅と言うらしい。時折リスが忙しそうに庭を走り、また枝から枝へと飛び跳ねている。目白も姿を見せチッチッとツバキを啄んでいる。
時が止まってしまったかのような錯覚を覚える。

器受けのお盆には注文したコーヒーカップの横に蝋梅の一枝が添えられている。
コーヒーの香りに混じり甘い香りを放っている。淡黄色の花びらは半透明で鈍い艶があり、まるで蝋細工のようだ。

身体もココロも十分に温まった。

庵を後にして正面の佛日庵の高い樹を見上げると、木蓮の花が2~3個開きかけている、つい先日はまだ蕾だったのに。
春はすぐそこまで確かにやってきている。