海側生活

「今さら」ではなく「今から」

今、どこ?

2017年01月30日 | 感じるまま

      (報国寺/鎌倉)
我々は携帯電話を持つようになって以来、「待ち合わせ」と言うロマンチックな時間を失ってしまったような気がする。

以前の、例えば渋谷ハチ公前で何月何日の何時に「きっとだよ!」などと言う待ち合わせの方法は取らなくなった。おおよその時間と場所を決めておき、後は「今どこ?」と言う事になる。
駅の後ろと前との違いや東口と西口との違いなど、気をもむような誤解などはあり得ない。もし二人が会えぬとしたら、それはどちらかの明らかな拒否に違いない。
携帯電話の出現と高性能化によって、人生のロマンチックな部分は相当に排除され、現実が支配してしまった。

そう言えば最近、「もしもし」と言う応答の慣用言葉も少なったような、又使わなくなったような気がする。
これは本来、知らぬ人に呼び掛ける際の言葉で、「もしもし落とし物ですよ」などと言う風に使われたものだろう。電話と言う機械を通して呼びかけるためには、相手の顔が見えない分だけ謙虚に気持ちになって、「もしもし」と口にする必要があったのだ。しかし子供にまで携帯電話が生活必需品となった今、顔の見えぬ相手に対してことさら遜る理由も無く、又発信者が誰かはすでに表示されているので、いきなり「今どこ?」となる。
ごく近い内に「もしもし」の言葉は消えてなくなるだろう。

駅の伝言板まで何度も言ったり来たり、また待ち合わせの喫茶店で何時間も待つような苦しくて切ない時間まで無くなってしまうのだろうか。

待ち合わせの他愛無く美しい誤解も、もはやあり得ないのか。

「テーゲー」に生きる

2017年01月19日 | 感じるまま

(浄智寺)
冷たい北風に頬も耳も指先もキリキリと痛い。
これから大寒を経て立春を過ぎ、雨水を迎えて陽射しの力強さを身に感じるようになる頃までは、この自分の細い体は寒気に身が益々細る思いだ。

日々の生活でも冷たい北風に劣らない逆風は必ずやって来るもの。何をしても上手くいかない。ジタバタするほど事態が悪化していく。こんな時、現役の頃はそれでも前に進むことだけしか考えられなかった。

しかし今、海側生活を続けて、考え方も大きく変わった。
運命の風向きが変わるまで、ジッと耐えて、出来れば個人的なお楽しみに耽る。問題とは何の関係も無い小説を読むのも、歌舞伎や映画を観たり、またなるべく長期間スキーに出掛けたり温泉で過ごすのも良い。どこかのタレントをオッカケするのも良い。どんなくだらないことでも良い。人には自慢できないが、それをやっている間、自分は楽しく集中できる。他の苦労や苦痛は忘れられる。そんな趣味に打ち込む。

人なんて誰もが特別の存在ではない。
暖めれば花も咲かすし、傷つければ萎む。人間も植物のようにそれほど強いものではない。運の風だって悪い方に吹くばかりではない。調子の悪い時は楽しみながら一休みしよう。自分が悪い、社会が悪いと責めても何の解決にもならない。

自分の好きな沖縄言葉に「テーゲー」と言うのがある。物事について徹底的に突き詰めて考えず、程々の良い加減に生きていこうという意味らしいが、「大概(たいがい)」の琉球漢字音で、大体、適当、おおよそ、まずまず、そこそこ、なあなあ、といったニュアンスらしい。
沖縄の気候と共に「テーゲー」の生き方は心身が穏やかになる。

運命の逆風と言うものは必ずしも人にとって悪いものばかりをもたらす訳ではない。
しかし人間の身勝手な性質として、良いことは当たり前として受け取りがちだ。

握手は馴染めない

2017年01月06日 | ちょっと一言

(鶴岡八幡宮にて)
おめでとうございます!」と赤ら顔の男性が街中で握手を求めてきた。

近頃、同年輩の知人に会うと「暫く」とか「やぁどうも」などと言って手を差し出されることがある。さして意味のない場面で、何ということなく握手をする習慣に慣れていないので、その度に戸惑ってしまう。闘病を終えたとか長い外国生活から戻った、あるいは特に親しみを表したい相手とは自然に握手が出来るが、「やぁ」と言う感じでの握手が、どうも好みに合わないと言うか馴染めない。

人と人との間には、落ち着いた気持ちになる距離があるのではないか。
例えば人が立ち話をする時、皆がだいたい同じような距離を置いて向かい合っている。それ以上に近づけばお互いに重苦しさを感じ、それ以上離れれば話しにくい。男性と男性が向かい合う距離に比べ、女性と女性の場合は一歩近いような気がする。とにかく人には他者と向かい合う時には心の休まる距離があると思う。

それなのに握手をしようと言う相手は、その微妙な距離の結界みたいなものを、いとも簡単に踏み越えて右手を差し出しながら、グイとこちらに近づいて来る。それは日本人らしい繊細な心情を蹴散らかされた感じを受ける。確かに欧米のマナーを身に付けた人達が、日本社会でも多数を占めるようになり、その結果として、日本人に根付いたのかもしれない。

例えば、自分が出会った場合、二人がお互いの結界を確認し、その人に相応しい流儀のお辞儀をして、それから親しみの中に入ってゆく。手を握り合ったり、肩を叩き合ったり、肩を抱き合ったりするのはその後であって、先ずお辞儀ありだ。

今、お辞儀の時代から握手の時代へと、切り替わりつつあるようだ。

しかし、日本人に最も良く似合うお辞儀が消えてしまうのは忍びない。お辞儀の美しさをわきまえた上、場面によっては握手をする構えが、現代の日本人に最も相応しいと思う。

お屠蘇が残る我が身を振り返りながら考えた。