(報国寺/鎌倉)
我々は携帯電話を持つようになって以来、「待ち合わせ」と言うロマンチックな時間を失ってしまったような気がする。
以前の、例えば渋谷ハチ公前で何月何日の何時に「きっとだよ!」などと言う待ち合わせの方法は取らなくなった。おおよその時間と場所を決めておき、後は「今どこ?」と言う事になる。
駅の後ろと前との違いや東口と西口との違いなど、気をもむような誤解などはあり得ない。もし二人が会えぬとしたら、それはどちらかの明らかな拒否に違いない。
携帯電話の出現と高性能化によって、人生のロマンチックな部分は相当に排除され、現実が支配してしまった。
そう言えば最近、「もしもし」と言う応答の慣用言葉も少なったような、又使わなくなったような気がする。
これは本来、知らぬ人に呼び掛ける際の言葉で、「もしもし落とし物ですよ」などと言う風に使われたものだろう。電話と言う機械を通して呼びかけるためには、相手の顔が見えない分だけ謙虚に気持ちになって、「もしもし」と口にする必要があったのだ。しかし子供にまで携帯電話が生活必需品となった今、顔の見えぬ相手に対してことさら遜る理由も無く、又発信者が誰かはすでに表示されているので、いきなり「今どこ?」となる。
ごく近い内に「もしもし」の言葉は消えてなくなるだろう。
駅の伝言板まで何度も言ったり来たり、また待ち合わせの喫茶店で何時間も待つような苦しくて切ない時間まで無くなってしまうのだろうか。
待ち合わせの他愛無く美しい誤解も、もはやあり得ないのか。