海側生活

「今さら」ではなく「今から」

追分

2011年06月06日 | 東海道五十三次を歩く

追分

昨日、関宿に着いたのは「東の追分」だった。今日、旅籠を出発して暫く歩くと「西の追分」に行き着いた。
髭文字の巨大な石標には「南無妙法蓮華経 ひだりいがやまとみち」とあり、伊賀上野・奈良に至る大和街道・国道25号線だ。右は自分が歩き進む東海道だ。

追分に差し掛かかっても、左右のどちらの道を選ぼうかなどと迷う事はない。自分にとって今回の歩きは目的地が決まっているから。

しかし、これまである時期までの自分が通って来た道には、いくつもの言わば追分があった。

人は自分の道は自分で切り開けと言うけど、人生案外そうは行かない。運命の分かれ道には大抵、誰かが立っている。誰だかは良くわからない、その人に腕を掴まれてこっちに来いと引っ張られる。もしあの運命の分かれ道にその人が立って居なかったら、今頃どんなになっていたか分からないって言う恩人も居れば、その人に会いさえしなかったらこんな事になってなかったと、一生後悔するような人も居ると思う。

自分の場合は、今振り返って考えてみると、いつも分かれ道に立っていた人は違ったが、その人に手を差し出され、そして引っ張られ、分かれ道を通過して来た様な気がしてならない。幾人の恩人に助けられてこれまで生きて来たのだろう。

追分に差し掛かかって、改めて思う。今からは自分が、迷っている人を引っ張る番だ、救いの手を差し出す番だと。

鈴鹿峠を越え、三重県から滋賀県に入った。


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1 コメント

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        追分に入りて迷わぬ夏の雨 (宮本靖夫)
2011-06-08 16:40:09
        追分に入りて迷わぬ夏の雨
人生は迷いと決断の連続とはよく言ったものです。
振り返ると、決断よりもその後の努力や信念に欠けていたことの方が多かった自分です。曲げない信念、言い出したら聞かない頑固さなど。自説を通す窮屈さより、妥協する安楽を選んでしまっています。この性分は変わりそうもありませんね。
夏目漱石ではありませんが、情に棹させば流される意地を通せば窮屈だというわけで、流されることの多い自分です。
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