海側生活

「今さら」ではなく「今から」

砂時計

2014年06月28日 | 季節は巡る

Photo

                                                  (花塚/建長寺)

 三カ月に一度の検診結果を告げられる瞬間は、八年目だというのに、今でも全神経が主治医の口元に集中する。

 まさに自分は四季毎に生かされている。

 次の夏はミルク入りのかき氷を口に出来るだろうか、次の秋には燃えるような京都・貴船の紅葉を撮りたい、さらに冬の冠雪した猛々しくも優しさが溢れる富士山が陽光に輝く様子を望めるのか、更にさらに次の春には長かった冬を越し芽吹いたばかりの若芽にソッと頬刷りしてみたい等と、検査が一度終わる毎に次の三カ月を一年分に想いを巡らす。

 時の流れが早い。

 こんな時、腑に落ちる言葉に出会った。

 立川昭二さんのエッセイ集「人生の不思議」だ。その中の「時間を深く生きる」の項で、ドイツの作家/エルンスト・ユンガーの「砂時計の書」から砂時計について次のような言葉を引用している。『上部の砂が漏斗状にくぼんでゆき、下部に円錐状に堆積してゆく。失われてゆく一瞬、一瞬が積もらせるこの砂の山を見ていると、時間はなるほど過ぎ去るけれども決して消え去るのではない。(中略)時間はどこか深部に豊かに蓄えられてゆくのだ』。そして立川昭二さんは『今の今と言う自分の人生の時間が過ぎてゆく時間とひたむきに向き合っていれば、それはそれで時間を深く生きていることになる。それはまさに黄金の時間である』と。

 このエッセイ集は、これまで身に起きた全ての事で磨かれ、過去があったからこそ今がある、この現在も未来から見れば過去であると、常に将来の目で今を見て、判断に甘さが無く、しかも穏やかで心優しい人からの紹介で手にした。

 平凡な日常にこそ安らぎがあるものだ。そして若いワインが熟成し、やがて美酒になるように、平凡な日常も熟成させれば、遠くない将来に輝き始めるかも知れない。だから、つまらない今日の記憶をゴミ箱に捨てたりはしないで生きている。

 今回の検診も異常は無かった。

 将来に恋をしたくなった。

 


千羽鶴

2014年06月15日 | 鎌倉散策

Photo_3

              (烟足軒/鎌倉・円覚寺)

『鎌倉円覚寺の境内にはいってからも、菊治は茶会に行こうか行くまいかと迷っていた』ご存知、川端康成の「千羽鶴」の書き出しだ。

円覚寺の広い境内の奥まった所にある仏日庵(ぶつにちあん)には、鎌倉時代の8代執権・北条時宗の廟所がある。元寇と言う出来事に興味のある自分は、円覚寺に来る度に、別の入山料を払い必ずお参りをする。今日の目的は本堂の茅葺屋根を背景に紫陽花を撮ること。

 入口で顔馴染みになっているオネェさんは入山料を受け取り、お参りのための線香を渡してくれる。今日は茶室を特別見学が出来ますと言う声に誘われ、お参りの後、本堂の側にある茶室を見学した。

 お茶の事も茶室の事も分からない。しかし、時宗の命日・四月四日には茶会が開かれていることは知っている。四畳半の広さの茶室の躙り口の手前には、お待ち合いがある。そこで陽を避け、座り眺めているうちに、ふと思い出した。こんな出来事が現実にある訳がないと思いながらも、夢中で読んだ小説「千羽鶴」を。

 亡き不倫相手の成長した息子と会い、愛した人の面影を宿すその青年に惹かれた夫人の愛と死。青年は、『夫人は人間ではない女と思えた。人間以前の女、あるいは人間の最後の女かとも思えた』と描写されている。妖気が立ちこめる夫人をあたかも志野名器の精であるかのように思う青年。後に夫人の娘とも一夜を共にする。背徳の世界を描きつつ、名器の世界との世界とが微妙に重なり合う美の絶対境に惹かれ、夢中で読んだ日を思い出す。

 この「千羽鶴」の茶室のモデルになった「烟足軒」(えんそくけん)だ。

 川端康成は逗子のマンションで自ら命を絶った、71歳だった。

 手元の文庫本「千羽鶴」のカバーを改めて見ると、鶴の折り紙が二羽、赤紫と青色の紫陽花色で描かれている。