(花塚/建長寺)
三カ月に一度の検診結果を告げられる瞬間は、八年目だというのに、今でも全神経が主治医の口元に集中する。
まさに自分は四季毎に生かされている。
次の夏はミルク入りのかき氷を口に出来るだろうか、次の秋には燃えるような京都・貴船の紅葉を撮りたい、さらに冬の冠雪した猛々しくも優しさが溢れる富士山が陽光に輝く様子を望めるのか、更にさらに次の春には長かった冬を越し芽吹いたばかりの若芽にソッと頬刷りしてみたい等と、検査が一度終わる毎に次の三カ月を一年分に想いを巡らす。
時の流れが早い。
こんな時、腑に落ちる言葉に出会った。
立川昭二さんのエッセイ集「人生の不思議」だ。その中の「時間を深く生きる」の項で、ドイツの作家/エルンスト・ユンガーの「砂時計の書」から砂時計について次のような言葉を引用している。『上部の砂が漏斗状にくぼんでゆき、下部に円錐状に堆積してゆく。失われてゆく一瞬、一瞬が積もらせるこの砂の山を見ていると、時間はなるほど過ぎ去るけれども決して消え去るのではない。(中略)時間はどこか深部に豊かに蓄えられてゆくのだ』。そして立川昭二さんは『今の今と言う自分の人生の時間が過ぎてゆく時間とひたむきに向き合っていれば、それはそれで時間を深く生きていることになる。それはまさに黄金の時間である』と。
このエッセイ集は、これまで身に起きた全ての事で磨かれ、過去があったからこそ今がある、この現在も未来から見れば過去であると、常に将来の目で今を見て、判断に甘さが無く、しかも穏やかで心優しい人からの紹介で手にした。
平凡な日常にこそ安らぎがあるものだ。そして若いワインが熟成し、やがて美酒になるように、平凡な日常も熟成させれば、遠くない将来に輝き始めるかも知れない。だから、つまらない今日の記憶をゴミ箱に捨てたりはしないで生きている。
今回の検診も異常は無かった。
将来に恋をしたくなった。