海側生活

「今さら」ではなく「今から」

旅は道連れ

2011年05月29日 | 東海道五十三次を歩く

42番目の桑名宿、その七里の渡しから、43番目の四日市宿に向け歩き出して暫くしたら雨が落ちてきた。雨の中を歩くのは苦手な自分は早々に歩くのを止めた。車で30分ぐらいに位置する湯ノ山温泉に後輩達が宿を手配し、車で送ってくれた。天気予報ではこれから雨は強くなり、さらに二三日は続くと言っている。ユックリしよう、急ぐ旅ではない。いつまでに京都・三条大橋に着かねばならないと言う期限があるわけではない。
雨が止んだら、今日中断した地点・桑名宿の国道一号線の交差点から、残り120kmを再開すれば良い。しかし台風2号が日本列島に接近しつつあるという。

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広い大浴場には誰も居ない、貸切状態だ。湯の中に手足を存分に伸ばしてこれまで歩いた11日間を思い起こす。
病院との予約があり8日間歩いて中断し、再開した岡崎から池鯉鮒(現在の知立)、鳴海、そして41番目の宮宿(名古屋)の七里の渡しまでの二日間は、自分にとって無くてならない存在の東京に住む“オジサン”が同行してくれた。道連れがいると足取りが軽くなったような気がする。
江戸時代の面影を残す松並木を抜け、田植えが終わったばかりの若緑の水面を見ながら、また幾つもの川を渡り、無造作に咲いている杜若(かきつばた)を見て、「空が広い」、「空気の匂いが街とは違う」、「花の色が何故だか違う」等と会話にならない話をしながら歩を進めた。懐かしい風景等に出会うと、それは自分にとって癒しになっているのを感じる。

一人で歩いていると会話も出来ない。空行く雲や吹く風に、また松の木や花や虫達に、そっと小声で話し掛けるだけだ。

他愛ない会話をしながら自分は、故郷での幼い頃一緒に過ごした、裏山でのメジロ獲りやビー玉、メンコ遊びをした事を、“オジサン”には言わなかったけど思い出が蘇っていた。

「旅は道連れ 世は情け」何て言うが、連れが“オジサン”で良かった。

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八橋の杜若、有松の連子格子の家並みと絞り染め、笠寺観音でのお参り、そして七里の渡しと東海道はここまでだが、さらに足を伸ばして熱田神宮でのお参りと源頼朝が生まれた誓願寺への訪問など、二人とも名古屋には浅からぬ縁を持っているのに、足を運ぶのは初めてであった。
二日間で36kmの行程は、“オジサン”との道連れで自分の生涯の思い出になる二日間であった

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  ペンを持ったまま宿の部屋の窓越しに外を見遣ると、すぐ向こうの山が白っぽく霞んで見える。雨脚が強くなって来たらしい。
                                                


どまんなか

2011年05月23日 | 東海道五十三次を歩く

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300kmの道のりも先ず一歩からと、自分に言い聞かせ、リュックの止め紐を強く引き締め一歩を踏み出した。

旅は人との出会いの他に、思わぬ“気持ち”や“考え方“との出会いもある。

袋井市に足を踏み入れた途端に「東海道五十三次どまん中」の文字が目を引く。市街地に近づくにつれその文字は、あらゆる看板に書かれている。小売店や飲食店などの看板にも。さらに学校の正門に掲げてある、言わば校名を表す表札にまで校名と並べて「東海道五十三次どまん中」と大きな文字で書かれている。

かっての宿場町の入り口辺りに差し掛かると、風に揺らいでいる大きな案内旗が芽に飛び込んだ。近づき旗を手にとって観ると、やはり「東海道五十三次どまんなか茶屋」と書かれている。聞けばこの茶屋は観光案内所だと言う。

もてなしの熱いお茶を頂きながら「どまんなか」について聞くと、真っ黒に日焼けしたオジさんは、「この袋井宿は、東海道に五十三ある宿場の丁度真ん中になる27番目の宿場。京都から数えても日本橋から数えても、どまん中!」なのだ、と。

オジさんは、この「どまん中茶屋」を無給で15年間も一人で運営しているそうだ。茶屋の運営時間は日の出から日没まで、年中無休との事。

ふとオジさんは立ち上がり焼酎のお湯割を作り始めた。そして自分の目の前に置いた。「まあイッパイどうぞ。歩き疲れた身体には薬だよ」。有り難く美味しく頂いた。肴はタクアンだ。
自分は思わず聞いた。「ここでの楽しみは何ですか」。目を細めてオジさんは答えた。「知らない人に毎日会え、新しい話を毎日聴ける事だね」

二杯目が空になる頃ふと外を見ると、太陽が沈みかけていた。礼を述べ、急ぎ茶屋を後にして、紹介頂いた今日の宿に向かった。
宿に向かいながら、80歳になると言うオジさんの「楽しみは待っていてもやって来ない、こちらから見つけ出すものだから」と言う言葉が、又聞こえたような気がした。

翌早朝、見附宿に向かう途中、オジさんに礼を述べるために「どまん中茶屋」立ち寄ったら、「よう、寄って下さった。気を付けて」と深いお辞儀が返ってきた。


間違えた?

2011年05月20日 | 東海道五十三次を歩く

間違えた?
東海道五十三次を歩き始めて八日目。今日も快晴。

岡崎宿「二十七曲がり」を迷いながら通り抜け、町の外れの「八丁味噌」に立ち寄り、なんだか懐かしいような匂いを身体中に浴び、外に出るとそこは矢作川。長い橋を渡ると側に「出会之像」が建っている。後に豊臣秀吉となる日吉丸と蜂須賀小六が出会ったとされる所だ。

宿を出て二時間歩いたあたりでカフェの文字が目に飛び込んで来た。コーヒーを注文し、暫くして運ばれてきたのを見て、思わず注文したのと違うと言いそうになった。 コーヒー用の生クリームは当然としてプレートの上にはミニサラダ、バナナの半分と茹卵、普通の二倍は厚い、バターがタップリと塗られたトースト等が所狭しと盛られていた、350円なり。

やがて理解した。ここは名古屋から遠くないのだ。 これから名古屋に近づくにつれ、コーヒー一杯にどんなサブライズが待っているのか楽しみになった。

やはり楽しみは待っていてもやっては来ない。

しかしコーヒーは「小坪ブレンド」が懐かしい。


ナンジャモンジャ

2011年05月09日 | 東海道五十三次を歩く

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「無理をしないで楽しんで!」と、友人達の殆どはまるで口を揃えたように言う。
京都・三条大橋を目指して旧東海道を歩き始める直前の、ここ一週間の出来事だ。

久しく会っていない友人の一人がブログを見て電話をしたと前置きの後、「無事に京都・三条大橋に着けたとしても、それが何ぼのもんじゃ!歩く意味が分からない」。要するに自分の健康状態を慮って、計画を中止したらと長い電話を呉れた。
彼は自分の病気の治療中の事は全く話さなかったが、あまり芳しくないのだなと逆に気遣ってしまった。

彼の「それが何ぼのもんじゃ!意味が分からない」と言う彼の独特な言い回しの言葉を繰り返し聞くうちに、自分はある花に思いを馳せた。“ナンジャモンジャ”は今が見頃の筈だ。自分のアルバムには、この花はまだファイルされていない。鎌倉・円覚寺に足を運んだ。

明るい日差しを受けて満開に咲く通称“ナンジャモンジャ“、離れて見ると木に雪が降り積もったようだ。花は四つに深く裂け、花弁は長さ15cmほどで細長い、10cmほどの花房に小さな花をびっしりと付け、綿帽子のように新緑を覆っている。秋になると卵型の果実が黒紫色に熟すという。モクセイ科の落葉高木で「ヒトツバタゴ」と言う和名がある。
白い清楚な花を観ていると自分の身も心も清められるような気がする。

当初、人はこの木の、花の名前が分からないで「何て言う物じゃ」と呼ばれているうちに 、いつのまにか「ナンジャモンジャ」と変わった名前になってしまったらしい。            
                         
自分が東海道五十三次をただ歩く事は、経緯を知らない人から見ればきっと“ナンジャモンジャ”みたいなものだろう。
ただ自分は不自由な人生とはサヨナラをした身である。遊び心を少しだけ出したいだけだ。バカにはなり切れないが少しだけバカになるだけだ。

京都・三条大橋に着くのはいつになるやら自信がないが、着いた時には自分の次のステップが現在以上に、まるで写真に撮ったように見えている筈だ。

“ナンジャモンジャ”の花言葉には「バカ」とはなくて「清廉」とある。