海側生活

「今さら」ではなく「今から」

不良老人に

2015年12月28日 | 海側生活

(英勝寺にて)
マンネリ化しているな、何かを変えたいと感じた。

年賀状を書くという事は、過去にお世話になった人や親しかった人との思い出に心を馳せる瞬間でもあり、相手を想い自然と心が通じる機会でもあるような気がする。パソコンのアドレス帳で、先ず喪中挨拶状を頂いた人の心情を察しながら、一人一人と静かな会話を進めながら整理をする。同時に明年の生活の全ての計画の構想をまとめる時間でもある。

現役の頃は年賀状も自分の広告塔だとばかりに、ビジネスで知り合った人には、ほとんどすべての人に出していた。かなり膨大な数だった。リタイアしてからは儀礼的なものは止めた。今、数はかなり減った。しかしそれでも多い。年末のこの時期、三日間は時間が取られてしまう。しかし、今年中に一度も会わなかった人や電話・メールもしなかった人などには出すのを止めることに決めた。

「体力の衰えを痛感し、年末を悠々と過ごしたく決意いたしました」などと、来年からは年賀状は出しませんと「最後の年賀状宣言」をするという方法もあると聞く。
逆に滅多に会わない親族には、近年想いが強くなり、繋がっていたいと思う。

これまで年賀状には近況や趣味の事柄などをサラッと紹介してきたが、今年は何かを変えたいと思うが、ありきたりの言葉しか浮かんでこない。

そんな時、作詞家・阿久 悠の言葉が浮かんだ。過日、ホームカミングデイで母校に立ち寄った際に「阿久 悠館」で書き留めた言葉だ。 
『作詞家は現代を直視しなければならない。決して目をそらすことは出来ない。
 目をそらした時点からご隠居にされてしまい、何を言おうとオブザーバーの戯言にされてしまう。
 自分のアンテナに掛かったあらゆる事柄を収集し「時代日記」を綴り続けた。』
5000曲以上の作詞を手掛け、数々のヒット曲を送り出した人らしい、自分に対する戒めだったのかな。

この言葉は彼が現役時代のものだ。現在の自分とは立場は大きく違う。しかし振り返れば最近は情報を選択の際、真に自分が興味を惹かれる事柄ばかりを求め過ぎていた。直接には関連が無い事柄には見向きもしなかった。やはり生活の質を維持し楽しむためには身に起きる全ての事で磨かれて生きたい。アンテナは収めてしまわず、普通に伸ばしておこう。

結局、年賀状にはこんな言葉になった
『不良老人と言う言葉に出会いました。小さな夢を持ち続けたいと願っています』

健やかな新年をお迎え下さい

「うっかり」も健在だが

2015年12月20日 | 感じるまま

(円覚寺)
つい今週、電車に乗り30分ほど経ってから気が付いた、スマホを忘れて来た事に。

今日の会合の詳細事項は全てスマホに記録してある。開始時間は18:00と会場の最寄駅名だけは覚えていた。それを計って早めに家を出た。しかし会場の店名は片仮名のしかも自分にとっては意味不明の、小文字の「ッ」が二つも入っている覚えきれない長い名前だった。当然覚えていない。店の電話番号も地図も全てスマホの中だ。やがて目的駅に着いた。困った。駅周辺から看板にあるだろう「ッ」を探して歩き回ることも不可能だ。駅前の交番で「ッ」の店を尋ねようかとも思った。当然返答は分かり切っていた。誰かに電話をして聞こうと思った。しかし幹事の電話番号もスマホの中だ。途方に暮れかかった。

最近、トイレなどの電気の消し忘れが時にはある。また呑み屋さんなどでカラオケを注文した際、店の人から「それは先ほど歌ったよ!」などと言われることもある。友人には
認知症の初期に見られる症状だと冷やかされたりする。

以前、パスポートやチケットを入れた旅行用バッグを電車の網棚に忘れ慌てた経験がある。あの時は気が付いた成田空港でいわばパニックを味わった。出発カウンターで搭乗できない理由を説明し、旅行を諦めた。その時奇跡が起こった。「間に合いますか?」と息せき切った女性係官が、忘れてきた筈の自分のバッグを眼の前に差し出した。
あの時ほど日本で生まれて良かった、日本の治安の良さ、更に日本人のおもてなしの心に感動したことはない。

やがて悶々とするうちに、今日の出席者の一人の会社が隣の駅近くに在るのを思い出し、そこに向かった。
本人は不在だったが、同僚らしい人に彼のスマホに連絡をして貰った。聞けば彼は会場に向かっていると言う。

時間通りに会場に着いた。

改めて思った。「ウッカリ」も健在だが記憶力もまだ捨てたものではない。



思わず合掌

2015年12月08日 | 鎌倉散策

                (円覚寺)
お寺の境内には露座の石仏が思わぬ所にある。

円覚寺の山内は広く、塔頭も多く、公開されていない部分もあるが、それでも思わぬ所に佇まれている石仏に気付くことがある。
石仏は何かの志があって造られ納められることが多いと聞く。名工の作でなくても心を込めて供養の気持ちを刻めば自然と温情が漂うものだろうか。

方丈の前には開山の無学祖元禅師によって植えられたという樹齢700年の柏槇が歴史の長さを感じさせる。それを身守るかのように百観音が納められている。
江戸時代に、百体の石仏が岩窟に奉安されていたものを明治になって整備されたものらしい。いずれも形は6~70cmくらいで白く又蒼く苔生している。様々な表情をして何度見ても見飽きることが無い。ある時、名もない一つの石仏が笑いかけているように感じ、右側から左側からも観て、更に腰を屈めたり立ち上がり上から眺めても、やはり笑っているように見える。笑っている石仏は珍しいと強く印象に残った。それから小一時間は経っただろうか、紅葉の写真を撮った黄梅院の帰りに、再度印象に残った先ほどの石仏の前に立つと、今度は驚いた。この石仏は怒っているような渋い表情に見える。先ほどの笑っている石仏とは違う他の石仏を見ているのかと改めて置かれている場所を確認した。間違っていない。やがて解った。太陽の光が当たっている方向が変わったのだ。表情の中に影が出来て、違った表情に見えるのだ。

数年前、東海道五十三次を歩いた時、その道中には田舎道ほど、小さな石碑が草に埋まって、道筋に並んでいるのを幾度となく見た。それは道祖神であった、馬頭観音であった、地蔵尊であった。中には喜び合っているような手を取りあった姿もあった。ポツンと立っている石碑もあれば、後から一か所に寄せられたと思われる、しかも針金で結わえてまとめたものもあった。近年、石仏マニアがいて、道野辺の佛を持ち去る者もいるとも聞いた。

石仏は置かれた場所に意味があるはずだ。
そして山茶花などの、ひなびた花などが供えてあると、思わず合掌したくなる。

円覚寺の百観音の石仏はお守りされている点、幸せな笑顔さえうかべているように見えた。