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(浄智寺/鎌倉)
やっと春が来たと言う事を実感として感じるのは、人間、ある年を経てからではないか。
日一日と暖かくなってきた。裏山を見ても、一週間ぐらい前までは気が付かなかったが、山肌の一部分に枯れ木に交じって、樹の全体に白っぽく花が見て取れる、山桜だ。改めてその樹の左右にゆっくりと眼をやると方々に白っぽい花を付けた樹が点在している。
以前も書いたが、柄にもなく西行法師の歌を思い出して苦笑する。『願わくば花の下にて春死なむ その如月の望月のころ』。一時期、夢中になって西行法師に関する書物を読み漁った。その頃はただ良い歌だと思ったに過ぎないが、今は自分の夢である。夢のまた夢かもしれない。
桜の頃になると、気もそぞろにカメラ片手に寺社仏閣を歩くのは、儚い夢を追っているからに違いない。
散らない花は花ではない、枯れない花は花ではない。散るから花と言う、枯れるから花と言う。切なさと限りが入り混ざり 満開の一瞬を花は永遠の美に変えるのだ。特に桜にそれを感じる。
今年もまあ元気に桜を見ることが出来た。来年は果たして---。思うことは毎年同じである。
ちっとも進歩しない。しかし桜に限り、これで良いのではと思う。
死を思ふその盛りなる花の下 峨々
なぜか桜の花は死を連想させますね。これは日本人独特の美意識でしょうか。チューリップや椿
ボタンなどにはない不思議な雰囲気がありますね。そして、この死は決して悲劇的なものではなく、むしろ前向きに捉えられている感じがします。こんな風に感じるのも歳のせいでしょうか。