海側生活

「今さら」ではなく「今から」

白い筋

2011年07月25日 | 海側生活

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台風六号の影響で、思いがけず涼しい日が続いている。

遠く江ノ島越しに富士山を見ると、いつもなら海面温度の上昇による水蒸気で、朝の早い時間に麓まで一面の雲に覆われ、その姿は見えないのに、今日は穏やかな北風が吹き続けているせいか正午近くになってもその姿を現している。
頂上辺りから南側に一筋の細くて白い縦の線が見える。まだ雪が残っているのだ。

隣の漁港を見ると、台風のため避難していた漁船も次から次へと母港に戻ってきた。マリーナの桟橋も海面に戻された。
ここら辺りの漁船は、大きな台風が来ると、近場で漁をする小さな漁船は浜に普通より高く引き上げられ固定され、釣り舟や沖で漁をする比較的大きな漁船は台風避難港としても有名で、どんな台風でも細波しか立たないと言う油壺に避難する。そして台風が通り過ぎるのをジッと待つ。この台風六号では約一週間避難していた。もちろんその間は漁も出来なかった。

それにしても気候や気温の極端な変化には、自分の身体は対応できていないような気がする。倦怠感が残るし、クシャミが出るし、我ながら行動が鈍るのを感じる。

午後になり、これが夏本番の暑さだ!と言わんばかりの真夏の暑さが戻ってきた。富士山も雲に覆われ全く見えなくなった。次に目にする時は、あの白い筋も溶けて無くなっているだろう。

その頃には自分の身体の調子も普通に戻り、また自分の「我がまま法則」を発揮出来るだろう。

海も久し振りに輝きを取り戻しキラキラと輝き始めた。


線香花火大会

2011年07月21日 | 海側生活

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ここ一週間、お囃子の音色が至る所で聞こえていた。日本中が本格的な夏祭りのシーズンの到来だ。
京都・祇園祭も山鉾巡行を過ぎ、やがて静かになった。
仙台では「六魂祭」と称し東北六県の代表的な祭りが集結し、市内を練り歩いた。人出は想定の二倍以上だったそうだ。

しかし、ここ小坪の恒例の天王祭りは様変わりした。東日本震災による自粛と節電対策をしようと早々に決められていた。
従来は本祭を知らせる宵宮では、夕刻から始めていたお囃子も昼中に済ませた。祭りの間、お神輿は天王浜の御仮屋に安置された。いつもならその正面には舞台を設け、夜になると奉納演芸が捧げられてきたが、これも中止。子供達も楽しみにしていた浜での屋台も、自家発電だけの屋台だけで数も少ない。土地っ子達も何となく手持ち無沙汰に見える。

祭りの一週間、町中に吊るされた提灯に灯が燈ることは無かった。

そう言えば花火大会も、逗子も鎌倉も自粛して今年は中止だと早々に決まっている。

その後ツイッターで沸き起こった「それなら鎌倉市民が自分たちで花火大会をやればいい!」の声。
「さあ、本当にやろう。従来行われて来た材木座海岸で。でも、打ち上げ花火や音の出る派手なものではなく、線香花火でやりましょう」。この大災害の被害者の追悼・鎮魂の意味を込めて行うらしい。
面白い!自分も線香花火を持って参加する積りだ。

お神輿の担ぎ手達の掛け声も何となく静かな天王祭も、何となく過ぎてしまった。
厄を祓い、福を求める気持ちは、今年は特に切実だ。


薄紅を引いて

2011年07月11日 | 感じるまま

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草津宿を出て琵琶湖に掛かる瀬田の唐橋を渡り、湖に沿うように歩を進めると、大津宿の手前に義中寺(ぎちゅうじ)がある。
寺と言うにはほど遠い、東海道からは普通の民家のように見える素朴な佇まいを見せている木曽義仲の菩提寺だ。

境内には木曽塚と呼ばれている義仲の墓がある。又本堂には息子・義高の木造が厨子に納められているという。
手を合わせながら、鎌倉・常楽寺の裏山にある義高の粗末な墓が思い出された。

義仲は源平合戦の折、後に鎌倉幕府を開いた従兄弟の源頼朝と対立していた一族を庇護した事で頼朝と対立し武力衝突寸前となる。その際、義仲は11歳の嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出す事で、両者の和議が成立した。人質の名目は頼朝の長女・大姫の許婚と言う事だった。
当時6歳の大姫は、親達の政争の道具に利用されているとも知らず、二人は兄と妹のように親しくなり、特に大姫は義高を慕った。

その後、義仲は勢いに乗って頼朝に先んじて入京し、いわば力ずくで征夷大将軍の地位を勝ち取ったが、京の治安維持などに失敗し、朝廷からも見放された。やがて骨肉の争いとなり、頼朝に命じられた源義経に琵琶湖畔の大津・粟津で討ち取られた。

頼朝は続いて人質の義高も殺してしまった。一時は大姫や義高の側近の者達が鎌倉を脱出させたが、追っ手によって入間河原にて切られてしまう。これを漏れ聞いた大姫は、『吾妻鏡』によれば、「嘆きの余りに飲食を断たれた」とある。また「運命のなすところである」とも記述されている。  

運命と言う言葉は、現代よりもこの時代に似合っているのかも知れない。
しかしどんな時代でも子供には何の罪も無いのは当然だ。

何となく気に掛かり、鎌倉・扇ヶ谷の大姫の守り本尊と伝えられる地蔵が祀られている岩船地蔵堂に行った。お堂には誰が活けたか名も知らぬ野の花があった。中を覗くと木造の地蔵の唇には薄紅が引いてあった。

また鎌倉・常楽寺に足を運んだ。
裏山の公孫樹の根元に小さな墓碑があり義高公之墓と記されている。その背後の土盛りの塚には榊が植えられ、命日に立てられたと思われる新しい塔婆が5本あった。又公孫樹の枝に小さな真鯉と緋鯉の鯉幟が結び付けられ、風になびいていた。

街道を歩くと、点々と残る歴史遺産が、いくつかの街道を通して、一つに繋がって行く。
自分の斑な点々の歴史知識も一つの線になってゆく。


平坦な道

2011年07月04日 | 東海道五十三次を歩く

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東海道は全体として平坦地が多く、他の街道と比較しても歩き易いと人は言うらしい。

四日市宿を出て二時間ぐらい歩くと日永の追分に差し掛かる。国道1号線の道路標識には日本橋から400kmと表示している。京都・三条大橋まではあと100kmだと再認識する。やがて内部川を渡り、小さな集落を歩き過ぎると、旧東海道らしい道幅が狭くて、人家も殆ど無く、 人も車も殆ど通らない道に来た。思わず道を間違えたのでは思ったが歩き進むと道幅は進むにつれより狭くなり、急な上り坂になってきた。

途中息を切らし、腰を下ろして、リュックの水を飲み、ふと前を見ると一段高い位置に石碑がある。

『古事記』に依れば日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東征の帰途、伊吹山の神との戦いで病に倒れ、弱った体で大和帰還を目指し、剣を杖代わりにして、この急坂を登り、
吾足如三重勾而甚疲』 (わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)
「 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた」と言ったとされる。
これが「杖衝坂」(つえつきざか)と「三重県」の名前の由来といわれる、と碑の横に説明板があった。

後で知ったが東海道の中では、箱根峠、鈴鹿峠に次ぐ難所の一つと当時から称されていたらしい。

また、近くに芭蕉の句碑もある。
貞享4年(1687年)京都から伊賀への帰途、この急坂で落馬し『徒歩ならば 杖衝坂を 落馬かな』と詠んだと言う。
自分は俳句の事は解らないが、俳句には全て季語があると思っていた。俳聖と呼ばれる芭蕉の句に季語が無いってどういう事だろう。Y,Mさんに教えて貰おう。

ここまで200km余り歩いて来て、日本武尊みたいに三重には折れ曲がってはいないが、自分の足も、ふくらはぎが腫上がっている。 
しかしあと一週間ぐらいで京都・三条大橋に着けるだろう。自分の気力との駆け引きだと、自分に問い、そしてリュックの水を再び二口三口と飲み下し、迷う事なく大きく一歩を踏み出した事を思い出す。

どんな旅でも平坦な道だけを選ぶわけにはいかない。