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(小坪港/逗子)
ただ一艘の釣り船だけが港に係留されたままになっている。
他の船は夜明けとほぼ同時に出港した。
「改めておはようございます」
毎朝6時過ぎ頃になると船長のマイクを通した張りのある声が、寝起きに緑茶を飲んでいるベランダまでも聞こえてきた。船長は乗船している今日の釣り客に、港から数百メートル沖に出たあたりで、一日の行程と釣り方などを簡単に説明する。
9月下旬で時期は終わったけれど、カツオ狙いの日は説明がやや長くなっていた。カツオは30メートル船下の針先に掛かった瞬間から四方八方に走り回り、他の全員の釣り人の釣り糸を絡めてしまう。そのためヒットした人は大声で「ヒット」と船全体に聞こえるように叫び、他の釣り客は被害を最小限に保つため、釣り糸を急ぎ巻き上げる。一匹釣れるたびに3~4人は仕掛けが使えなくなり、釣るタイミングを外してしまう。カツオ釣りは船全体の共同作業でもある。船長は複雑に絡み合った釣り糸を元に戻す神業で素早い。またある時は、城ケ島の沖合での鯵釣りは錨を下ろしノンビリと釣り糸を垂れる。それでも水深は100mを遥かに超える。潮の流れが速い日はポイントを掴むのが難しい。ある時、持参した大型クーラーが満杯になり、早々に早上がりした日もあった。そんな日は船長は何も言わない、笑顔で船全体を見渡しているだけだ。家で料理しながら釣った数を数えたら100匹を超えていた。又ある日はその近くのポイントで30㎝は超すアマダイを5匹も釣り上げ感激をした日もあった。船長の「そのサイズは最近では珍しく大きいですよ」の一声が嬉しかった記憶が蘇る。
別の日には、港から比較的近い水深10~15mでのシロキス釣りでは錨を下ろし、船長も自分用の釣り竿を持ち出す。隣に座り釣り糸を垂れたまま、この遊漁船以外の別のビジネスの夢も語っていた。短く借り上げた頭髪に、真っ黒に日焼けした顔、船中ではトレードマークの白色の長靴をいつも履いていた。人懐っこい笑顔が周囲を常に和ませていた。
突然の訃報が耳に入ってきた。
別のビジネスで海外出張先のホテルでシャワー中に心筋梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまったと聞いた。
あれから三週間が経った。遺体の運送に手続きに時間がかかったそうだ。
船は港に係留されたままだ。ロープが時折揺れているのが見える。主がいない船も何だか寂しそうだ。