海側生活

「今さら」ではなく「今から」

魚を釣る魚

2011年02月28日 | 魚釣り・魚

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鎌倉駅に向かうバスに乗ったら、途中でテープの音声が社内に流れた。
「警察からのお知らせです。『振り込んで』と言われてもすぐには振り込まないで、本人確認をしましょう」それとなく車内を見渡すと高齢者が多い。相変わらず振込め詐欺が続いているようだが、関係者と身内以外は誰も驚かないほど日常の事件になってしまった。

この放送を聞いて今朝、浜で見た珍しい魚を思い出した。“せいちゃん”の網に掛かっていた「カエルアンコウ」の事を。
ユニークな風貌で、肉厚な胸ビレと腹ビレを手足のように器用に使って海底を歩き回り、泳ぎは下手で体長10センチほど。
最大の特徴は頭から生えた釣竿のような棒の先端に“エスカ”と呼ばれる白っぽくてゴカイに似た疑似餌をつけ、この疑似餌をクネクネとリアルに動かし小魚をおびき寄せ、まるで釣るように大きな口を開けて獲物を丸飲みすると言う。

魚のくせに魚を釣るという「カエルアンコウ」。
人間のくせに人間を釣る「振り込め詐欺」。

「カエルアンコウ」は、生まれ付きの本能であり、持って生まれたその特殊機能を生かさなければ生きていけない。人間には、人間を釣らなくても生きる術は他にもある。「カエルアンコウ」の真似などしなくても生きられる。第一「カエルアンコウ」に失礼だ。

写真に撮った後、「カエルアンコウ」を両手で包むように静かに海に帰すと、より深い所を目指し一歩一歩と歩き出した。


手創りの灯り

2011年02月21日 | 季節は巡る

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冬の北海道は初めてだった。
身体が細くなり寒さが身にこたえるようになった自分はまず雪国には行かない。
思えば富良野のラベンダー畑を見た時も、裕次郎記念館のオープンの時も、それまで十数回のゴルフもいつも夏だった。

札幌の「雪まつり」は高さ20メートルを越す雪像から、子供達が作ったのであろう可愛い雪だるままで150基弱の氷雪像まで見ごたえ十分だった。夜になりライトアップされた氷彫刻の80基は、“すすきの”の街のネオンが写りこんで妖しく光っていた。中でも透き通った氷の中に北海道の海の幸の数々を埋め込んだ彫刻は、暫し気温マイナス4度を忘れた程だ。

翌日の小樽に向かう車窓から眺めた海は、いつも部屋から眺めている相模湾の海とは、まるっきり違う。空を映した灰色の海や海岸に沿って波が白く歯のように陸を噛んでいる。そして打ち寄せる波の高さに思わず惹き付けられてしまう。冬のオホーツクから打ち寄せる波は何かを怒っているかのようだ。

夕暮れ迫る頃、吹雪いてきた。コートのフードを頭に被り、口元もマフラーで包み込んだが、少しだけ開いている目元に細かな雪が飛び込んでくる。歩く前が見えない。瞬間、キラキラと光る逗子の海が恋しくなった

小樽で見たかったのは「雪あかりの路」だ。
中でも運河に浮かぶ数百のガラスの浮き玉に仕掛けられたローソクの灯りを見たかった、浮き玉はかってニシン漁で使われたものらしい。
また運河沿いの雪の中には、無数のローソクの灯りが仄かに揺らめいていた。吹雪の中に身を晒し、カメラのシャッターを押すのも忘れ、立ち竦んで眺めていた。

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小樽の手創りの灯りは暖かかった。

人は、非日常の中に身を置いて初めて日常を知るものかも知れない。


春待ち時

2011年02月15日 | 季節は巡る

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立春を過ぎたとはいえ朝から小雪が舞い、今日は格別に空気の冷たさが身に沁みる。
こんな日、暖を求める自分の酒の相手の一番は「ナベ」だが、同時に無性に人恋しくなる。
この時期は、自分にとって特別の「ナベ」がある。「待ってたナベ」と自分勝手に名前を付けた。

土鍋に昆布を一枚敷き、大根一本分を卸して、酒を少々入れる。それに今、旬を迎えた生ワカメをシャブシャブとお湯に潜らせ口に運ぶ。 
生のワカメは早朝に浜の漁師に分けて貰った。茶色の生ワカメが緑色に変わる様は、まるで冬の永い眠りから覚めた命が一斉に地上に新芽を出し始めたような変化を、狭い鍋の中で瞬間に見せてくれる。幾度見ても新鮮な驚きだ。他の食材は殆ど入れないが、豆腐と葱を入れる事もある。白い大根卸に白い葱と白い豆腐は若緑のワカメに良く似合う。薄いポン酢で食べる。 

昨年来の異常な水温上昇にもめげずよく育ってくれた、もしかしたら育たないのではと昨年の心配に思いを馳せながら口に運ぶ。
磯の香りとワカメの独特の香りが口いっぱいに広がる。思わず今年もワカメの旬を口にする事が出来た喜びと、自分はこの春を再び迎えられたと言う思いと共に海の恵みに感謝する。自分にとって心からの「待ってたナベ」だ。

他の「ナベ」と比べ豪快さには欠けるが、男の料理としては簡単で意外と奥が深い。

もしかして「ナベ」は二人で食べるものかも知れない。
ある小説の一シーンに、こんなのがあったっけ。
障子を開けると外は小雪が舞いだしている。
「元気だった?」「ええ」‐‐‐‐‐‐‐‐。男と女は無言で日本酒を酌み交わす。
長い沈黙の後、「奥さん、元気?」「うん」と、会話はいたって少ない。

なんだか今夜もお酒が切なくて美味い。


頭で感じる

2011年02月07日 | 感じるまま

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春の息吹を見つけたくて薄曇の日、裏山を歩いた。
山茶花は散り、椿には早く、木々達は冬枯れて花がない。赤い実は鳥が来て皆な食べてしまった。
それでも所々に梅がいつの間にか蕾を付け、枝先には咲き始めた古木もある。メジロが聞き慣れた声で短く囀りながら、楽しげに少ない花から花へと忙しく飛び回っている。

何年も前に“無くてはならないオジサン”と六義園を散策していた時の事、その“オジサン”が「雨が振ってきた」と誰に言うことなく呟いた。空は曇ってはいたが、自分は全く気が付かなかった。しかし大きな池の辺に来た時、水面を見ると確かに小さく波紋が広がっている。その時自分は思った「オジサンってカンが良いのかな、ずいぶん早く気が付くものだな、どうして分かったのだろう」と。

裏山の散歩中に「あっ冷たい」と感じ、その訳が分かった。
暫くしたら雨や雪になると言う時は、『海側生活』のお蔭で雲の種類や風の変化などで人より先に解るようになっているが自分だが、実際に降り始めの瞬間は、顔や手に当たる冷たさや、水溜りに写る様子を見て、又植物の葉に付く水滴で分かったものだ。
しかし今回、冷たいと感じたのは頭のテッペンだった。

”オジサン”もあの時、カンが良かったのではない。身体の一番上の、しかもそこは髪が薄くなった頭のテッペンで感じていたのだ。

『肌で感じる』」と言う言葉があるが、辞書には『理屈として分かると言う事ではなく、実感すると言う事』とあり『頭で理解する』と対照的な表現、とある。“オジサン”も自分も降り始めの雨を『肌で感じる』と言うのか『頭で理解する』と言うのか、それとも『頭で感じる』と言うのだろうか。

それにしても、冬の雨は冷たくて頭にも沁みる。
せめてメジロの楽しげな囀りが、まもなく暖かい春も連れて来てくれる事に期待しよう。


マドンナ・ヴェルデ

2011年02月01日 | 興味本位

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日中は猫しか見かけない浜の通りに、20人ぐらいの人だかりがしている。

大小のカメラが三台、長く伸びたマイク、その他の小道具が所狭しと置かれている。普段は無いバス停留所が撮影のために設置してあり「西坪漁港前」の名前も読み取れる。
誰か女優らしい人が居る。あるシーンの撮影が進んでいる。バス停に佇む一人の女性が眼に入った男性が、運転する車を女性の前に停め、何かしらの声を掛ける、それに短く返事をした女性は、車に乗り込もうと重そうな自分の身体の歩を進める、と言うシーンのようだった。

それにしてもあの女優は、背丈は普通だが、ずいぶん横に大きいな、自分の二倍はあるのでは、あんなに太って女優が務まるのかな、様々な人がいるなと見ていると、そのシーンを撮り終えた彼女は真っ白なダウンコートの前を両手で抱えるようにして足早に自分の方向に歩いて来る。そこで気が付いた。松坂慶子だ、男性は長塚京三。

次のシーンの撮影の準備が始まった。カメラの側で台本らしきものを持った女性スタッフに、何の撮影か聞いたら、「マドンナ・ヴェルデ」(NHKドラマ、4月19日スタート、夜10時放送、全6回)と言う丁寧な返事だった。

後でウエブで見たら、娘夫妻の子供を代理出産する55歳の母親を演じるとあった。
そして妊婦役の文字を目にして全て納得した。あの時、自分は野次馬だったが彼女は当然ながら仕事中だったのだ。あの撮影時は役柄になりきって、お腹の回りを大きく見せる工夫だけで一つの演技をしていたのだと気がついた。

浜の通りを、悠々と横切って歩く太った斑模様の野良猫も、この浜で何かの役を演じているのだろうか。
人は見かけだけでは判断できない。