海側生活

「今さら」ではなく「今から」

河豚が美味い季節

2012年11月28日 | 魚釣り・魚

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                                                         (報国寺/鎌倉)
魚は誰がどんな能書きを垂れようと、獲りたてを漁師の浜小屋で、潮風を浴びながら食するのが一番美味い。
河豚も例外ではないと思っていた。

臼杵を訪ねた、河豚を食べに。気配りが見事な従弟夫妻に連れられて。
先ず城下町を散策した。臼杵城の真下に辻と呼ばれる広場が残り、街路が放射線状に延びている。他の城下町には無い近世城下町の町割と街路が良く残っている。昔の建築物も残されているだけでなく、天保の改革や西南戦争など日本の近世史にも度々登場し、歴史好きには魅力ある街だ。予てより観たかった石仏群もある。

旦那が手料理で河豚鍋を造ったが、どうにも心細い。そこに乞食が来たので『どうだ、食べるか?』と分けてやる。そして暫くして乞食の様子を見に行かせると、乞食はピンピンしている。そこで旦那も安心して食べ始めた。暫くして乞食が又やって来る。
『もう河豚はないぞ!』と言えば、乞食が
『こちらの旦那さんも食べられましたか?』
『ああ、食べられた---』
『どうもありませんか?』
『別に---』
『では私もこれから頂きます』。
ご存知、落語の「河豚鍋」である。乞食のほうが一枚上手であった。

こんな落語を思い出しながら席に着いた。地元の関鯖と関鯵を堪能した後、河豚の登場だ。

運ばれて来た大皿の盛り付けを見た瞬間に驚いた。刺身“てっさ”の身が厚い。今までどの地域で、又どんな料理屋でも“てっさ”と言えば、盛り付ける皿の模様が透けて見えるほど薄く切ってあった。口にした事の無い厚さだ。噛み締めるほど弾力感と独特の濃い旨みが口中に広がる。

大皿には地元名産のカボスが何個も置いてある。噛むほどに、カボスの酸味に調和して、(てっさ)に甘味が加わってくる。飲み物も焼酎では物足りなくなった。ヒレ酒を注文した。香ばしさも加わり、杯も進んだ。

九州では「ふぐ通は臼杵で食する」と言う。また全国のふぐ通が高い運賃を払ってまでも、わざわざ臼杵まで河豚を食べに来る理由も頷けた。
臼杵の河豚は、他の地域に比べ一枚も二枚も上手であった。


時宗(ときむね)さん

2012年11月24日 | 鎌倉散策

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                                               (相模湾の薄命)
円覚寺の広い境内の奥まった所に仏日庵がある。
鎌倉幕府第八代執権で開基・北条時宗を祀る塔頭寺院で、時宗はここに庵をむすび禅の修業を行ったとされる。

再度ここに足を運びたかったのは、先月、鷹島(松浦市/長崎県)で見た元寇の際の大碇などを見たからだ。海底から引き上げられ730年前の元軍の船の碇は、欠けていなければ推定で7.3mあったとみられ、重量は重りとなった2つの碇石(計338kg)を含めて1トン近くだったとみられているとの事だった。 

遺物の珍しさよりも思わず胸が痛んだのは、その鷹島では元軍の攻撃により、島民の生き残りは灰の中に隠れた老婆二人だけだったと言う。それを見て、数年前の対馬/長崎県で見た元寇記録も思い出した。同じ時期、男は全滅、女は掌に穴を空けられて縄を通され、船べりに日本軍からの矢避け代わりに繋がれ、連れ去られたと言う。壱岐でも同じ状況だったとか。

この「文永の役」の後、元からの使節が再来日し、降伏を勧めると時宗は鎌倉で引見し常立寺(龍ノ口)で斬首した。又一度は、蒙古への服属を求められた際にも使節団を大宰府で処刑させている。

博多の生の松原、今津、西新・百道など見て歩いたが、博多湾一帯に延長20kmにも及ぶ防塁を築いていたものの、「弘安の役」では、町は元軍によって焼かれた。しかし、その翌朝には総勢4400隻の舟と14万人といわれる元軍の大半が、台風などによって鷹島周辺や博多湾海底に沈んだと言われる。

二度にわたる元軍との戦闘と再度の襲来に供えた防衛体制に要した費用は膨大だったに違いない。一方戦いには結果として勝っても、御家人達に恩賞を与える事も出来なかった。当然だ。外国の侵略に勝利しても、新しい土地は得られない。結果として御家人達の中には幕府に不満を持つ者が現れ、最終的には50年後の鎌倉幕府滅亡の遠因の一つになった。

「弘安の役」の翌年、時宗は元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて円覚寺を創建した。犠牲にあった人々や日本の武士と元軍(モンゴル・高麗等)の戦士が、今も分け隔てなく供養されている。

時宗は、この二年後34歳で生涯を閉じた。18歳で元の国書に決断を下してから16年間、ただ日本を守るために元と戦い抜いた。
そして自らが創建した円覚寺で永遠の眠りについている。

日本史最大の困難だった元寇については、国内事情はやっと理解できた。しかし、どうして元軍は日本を侵略しようとしたのかが解らない。次は朝鮮半島からモンゴルまで足を延ばすか---。

鎌倉から、京都、博多、鷹島、壱岐・対馬までと各地の元寇の出来事がやっと一つの線になって結びついた。

自分は考える。時宗は現代においてもう少し褒められても良い。何せフビライを相手にして勝利した、世界でただ一人の男だから。


知的トレーニング

2012年11月14日 | 鎌倉散策

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                    (瓶の井/明月院・鎌倉)

晩秋の鎌倉では、目に飛び込んで来るような大きな花はない。神社や寺にも何も無い。山々が紅葉で彩られるまで、もう暫くは、雑踏でも目を引く七五三の晴れ着の鮮やかな色ぐらいだ。

しかし目を下に落とすと、名も知らぬ草花が路地や庭の隅に、小さな草花がまるで何かに遠慮でもしているかのようにヒッソリと色とりどりに咲いている。

思い出しても幼い頃から、動物には親しんでも植物には殆ど興味を持てなかった。花をちぎって友達の顔に命中させたり、葉の先っちょで前の子の耳や首をくすぐったりがせいぜいであって、植物の名前など殆ど知らなかった。

北鎌倉から鎌倉方面に散策していた時、ある民家の庭先でピンクペッパーのような赤い実が固まって無数に実っているのを見つけた。小さなピンクの花もまだ残っている。背の高さは30cmぐらい。水遣りをしていた家人に聞いた。『この雑草の名前は何ですか』。家人は水遣りの手を止める事もなく、静かな口調で『雑草って、貴方が名前を知らないからでしょう---』。確かに聞き方が失礼だった。詫びて改めて聞き直した。『この植物の名前は何と言うのですか』。手を止め家人は丁寧に教えて呉れた。
三時草(サンジソウ)。昼過ぎから午後三時頃咲き、夕方まで花を開くと。

また、その日、宝戒寺(ほうかいじ)に寄った。
夏に来た時、教わっていた「子が患わ無い」と書く無患子(むくろじ)を見たくて。その時、高さ15mぐらいの樹の枝先には淡緑色の小さな花を無数に円錐状につけていた。秋には果実がなり、球形で黄褐色に熟し、やがて黒くなると聞いていた。古くから羽子板の羽根の重みや数珠にも使われるなど縁起物とされているとも。

境内に入り、無患子の樹には子供ずれの先客があった。
夏には気が付かなかったが、樹の根元に赤い前掛けをしたお地蔵様が置かれている。それに向かい手を合わせている。母親と共に屈んでお参りしている晴れ着姿の三歳の女の子は、片手に千歳飴を提げている。晴れ着の袖が地に着いている。

宝戒寺には神社はない。どこかの神社でお参りした後、無患子が有るここまでわざわざ娘のために、やって来たに違いない。
母娘と擦れ違う時に見た女の子の白く化粧した顔と赤い口紅が鮮やかだった。

樹の側に行ったら、実が樹の根元に無数に落ちていた。実の皮を剥いたら黒くて硬い実が一個出てきた。

草花の美しさ、その営みを面白く思うためには歳月が要る。齢を重ね、人生の経験を積んで、やっと目覚めるものかも知れない。
植物を楽しむためには、まだまだ知的トレーニングも必要だ。


霧の中の露天風呂

2012年11月05日 | 最大の財産

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                 (やまなみハイウェイ/熊本)
温泉には日常から掛け離れた桃源郷のようなイメージがある。

日々の生活が営まれる場所から旅立つ時、人はどこか疲れていて、或いは飽きていてココロやカラダをリフレッシュさしてくれるものを求めているのかも知れない。山を越え、川を渡り、桃の花が香る別天地に至る、というのが桃源郷なのだろうが、やはり温泉は街中に在って欲しくない。

間もなく六人目の孫を持つ従弟夫妻と霧の久住高原を走った。作曲もするオジさんも一緒だ。俄かに天候が変化し、曲がりくねった高原のハイウェイは空か大地か、200メートル先は霞んで見えない。 

高原の夜の露天風呂は、山肌を縫うように頂上から降りてきた霧が顔を掠め、薄明かりがその霧にボンヤリと映っている。周囲は何も見えない。風の音だけが猛々しい。露天風呂の隣の打たせ湯から流れ落ちる湯が風に煽られ、冷たくなって頬に吹き付けてくる。オジさんは「坊がつる讃歌」を口ずさんでいる。

じっと湯の中に身を沈め、暗い天空と大地の声に耳を傾けた。

お湯に入るのも好きだが、露天風呂から見上げる月や紅葉とか、湯上りの一杯とか、温泉特有の湯煙の匂いとかの風情に魅かれる。肌で直接感じるよりも、その他の器官つまり目や口や鼻で感じる方が、日常では見えなかったものが見えたりする。

湯上がりに、自分が区切りの年齢になったお祝いにと、従弟夫妻が準備してくれたロゼが渇いた喉やカラダに心地良く染み渡っていった。カラダではなくココロが疲れ始めていたのだとしみじみ思いあたった。

従弟夫妻にはココロまで暖めてもらった。