海側生活

「今さら」ではなく「今から」

ある日常

2018年06月29日 | 海側生活

          (建長寺/鎌倉)
朝食が楽しみだ。
と言っても、何も凝ったものを食べはしない。簡素で手軽さが朝食の良い所だ。

和食の定番と言えば納豆、塩鮭、海苔にホッカホッカの湯気の立つ炊き立てのご飯と味噌汁。しかし納豆はあの匂いが嫌だし子供のころから口にするチャンスもなかった。また塩鮭は塩分が今の自分には強すぎる。海苔は消化が出来ない体になってしまっている。これらは食しないし出来ない。
しかし納豆の代わりに食べきりサイズの豆腐、塩鮭の代わりに地元で獲れるシラス、海苔の代わりには果物とヨーグルト入りの野菜ジュースなどと手軽だ。たまにはご飯を雑炊にしたりする。

もちろんパンも好きだ。その日の気分によってマーマレードだの杏ジャムなどを添える。以前はこれらの日本製はただベタベタと甘いだけで味わいに乏しかったが、今はオレンジの程良い苦さや風味豊かな杏の酸っぱさを満喫できる良質の瓶詰めが手軽に買えるようになった。また時々はメープルシロップをコッテリかけた甘いホットーケーキなんかもなかなか美味い。

自分は俗な人間だが、人生の幸せというものはつまるところ朝食が旨いといった事などに尽きるのではないかと考える。
実際、一日の始りには二種類がある。起きた途端に、今日は朝飯を何にしようかと気持ちが浮き立つ朝と、胃痛だか心労だかで何も口にする気になれない朝と。浮き立つ朝が続くのが何よりだが、それが実現出来たらそれだけで幸せかもしれない。この頃酒を飲まなくなったのは、身体の消化能力が不足している事が原因だけでなく、翌日の朝食を台無しにしたくないという気持ちが、どこかで働いているのかもしれない。経験から言えば、満ち足りた朝食を摂れた日は平穏に暮れて、心静かな夜が訪れるようである。

老いと死に向け、旨い朝食を日々の小さな楽しみとしながら淡々と生きていきたい。
と思ってはいるが---。


手の文化

2018年06月23日 | 海側生活

               (イワタバコ/円覚寺)
クリップと言うこの小さな物体が、子供の頃から好きだった。
梅雨のある日、机の上やパソコン周りの書類を片付け、そして処分していたら、多くのクリップが手元に残った。

クリップと言っても今は多種多様で、大小取り混ぜて様々な色や形があるが、やはり縦に細長く、両端が半円形の丸みを帯びた、あの昔ながらの形状のものが一番好きだ。
何の変哲もないただの針金が、クルリ、クルリと二重に丸められただけの、構造とも言えないようなあの螺旋の構造が素敵だ。誰が発明したのかも知らないが、あの仕組みの極端な単純さに美すら感じる。
小学生の頃だったと思うが、自分にとって、外側の大きな円弧と内側の小さな円弧の間に紙束をスイと滑り込ませるという、ただそれだけの事なのに、それで数枚の紙がギュッと押さえつけられて一まとめになってしまうと言うのは、なんとも不思議な手品みたいに感じたものだった。あの両端の丸みにも何とも言えない柔らかさが漂っているのに安心感を持ったものだった。

他方、紙を束ねて留めるにはホッチキスというものもある。挟んでガチンとビスを打ち込んでしまえば、紙の束はクリップよりもしっかり安定する。しかし自分は、これは何やら拷問器具のミニチュアを思わせる文房具を、どうしても好きになれない。ビスが無くなれば補充用のカートリッジを装着するけど、その操作にも銃に弾薬を装填するような連想が働き、なんだか武器の一種を扱っているような気がしないでもない。そのうえ、紙束をばらす必要が生じた時、打ち込んだビスを抜くのが面倒だ。つい指先を痛め血を滲ませたり、爪を割ったりなどの記憶がまつわりついて来る。
やはりクリップでそっと挟むだけにしておいた方が良い。

いやもっといい方法がある。小学校の頃の先生は、答案の束をこよりで綴じていた。細長く裂いたチリ紙を螺旋状によじり一本の紐にしたこよりを、答案の隅に空けた穴に通してしっかりと結ばれていた。思い出せばあれはホッチキス的なお手軽さからも、その攻撃性からもはるかに優しい手の文化だった。

こよりというものが我々の生活から消え、言葉すら死語となってしまったのはいつ頃からだろう。


色変わり

2018年06月11日 | 感じるまま

(長寿寺/鎌倉)
「七変化」と辞書でひくと「アジサイの別名」という記載があるほど、アジサイの花色の変化は、昔から周知の事実だったようだ。

花色は開花から日を経るに従って徐々に変化することは言うまでもない。最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯びており、それが分解されていくとともにアントシアニンや補助色素が生合成され、赤や青に色づいていく。さらに日が経つと有機酸が蓄積されてゆくため、青色の花も赤味を帯びるようになる。これは花の老化によるものであり、土壌の変化とは関係なく起こるらしい。また、同じ株でも部分によって花の色が違うのは、根から送られてくるアルミニウムの量に差があるためである。ただし品種によっては遺伝的な要素で、アルミニウムを吸収しても花が青色にならないものもあると教えられた。

ある日、長年の知己が五年ぶりにやってきた。
彼女は確か60歳は超えているはずだが、見た目の雰囲気では40歳後半にしか見えない若々しさだ。昔から身だしなみも良い人だった。鮮やかな口紅の赤色がドンと真っ先に眼に飛び込んでくる。
「お元気ですねぇ」思わず言うと
「亭主が死んで呉れたおかげ---」と、艶然と笑う。
以前は主人と言っていたのに今は亭主と言う。

五年前の突然の不幸に見舞われた際の、憔悴しきった彼女に掛ける言葉も見つからなかった。

彼女は「もし永遠に生きられるとしたら、その間に味わう苦しみを、どのように耐えていけば良いのでしょう。こんなことを考えると、人にも寿命があると言う事が逆に救いになっているのかも知れません」とも言った、笑顔が明るい。

人は悲しいからと言って泣き喚くとは限らない。泣くことで悲しみを癒す人もいるが、微笑することによって耐えている人もいることを知った。

彼女は紛れもなく変化した。そして今もより素敵に変化を続けている。