海側生活

「今さら」ではなく「今から」

シラウオとシロウオ

2017年03月25日 | 季節は巡る

また勘違いしてしまった。

午前中に弱い雨が降り、まだ乾き切っていない裏路地を、立春を過ぎたと言うのに冷たい北風にジャンパーの襟を立てながら、ドアーを開けた小料理屋での出来事。
去年も、花散らしの雨で、どこから飛んできたのか、路地に張り付いたピンク色の小さな花びらを避けて足を運びながら、同じ店に向かった事を思い出していた。

「今日のオススメは?」。自分の好みを充分に分かっているオヤジが、すかさず「シラウオです」。自分も間髪入れず「いただきます!」。

郷里に近い福岡の従兄弟を訪ねた折にご馳走になったシロウオの「踊り食い」を連想し、口の中でピチピチと跳ねながら咽喉を通り過ぎる感触と三杯酢が口中にジワッと広がる味を思い出していた。「お待ちどう様」と差し出されたのは、身体の色も白い「シラウオ」だった。刺身感覚で山葵を軽く付け醤油味で「どうぞ」と。

漢字で〝白魚“と書けばシロウオと読みそうだが、”白魚”はシラウオで、シロウオは“素魚“と書く。シラウオ(白魚)はシラウオ科、シロウオ(素魚)はハゼ科で別の魚ですと、親父に改めて教えてもらう。オヤジはついでですが、「シロウオ」は額に薄く見える紋様が葵の御紋に似ている事から、霞ヶ浦付近ではトノサマウオとも呼ぶそうです。

オヤジの話を黙って聞いていた、俳句も嗜む隣に座っている友人が「---白魚のような指---」とボソッと呟いている。白木のカウンターに置かれた彼の手の指を改めて見ると、まるで鱈子のようにフックラと、ふくよかに指に肉が付き、赤ちゃんの指のように関節が凹んでいる。
皿にセンス良く盛られた「シラウオ」と、彼の鱈子のような指との対比が面白かった。

シロウオ漁もそろそろ終わる頃、春本番を迎え、土筆も盛りだ。

今日も『自分アクションプラン』

2017年03月11日 | 海側生活

(小坪海岸)
ほんの細やかな小さな事でも嬉しさが沢山ある方が良い。そんな気持ちで朝、眼を覚ます。

小さな嬉しさが沢山ある一日であれば、ホンノリ幸せな気分になる。そんな毎日が続けば生きているのがキット楽しくなる。
その為の自分なりの方法が『自分アクションプラン』だ。
『自分アクションプラン』とは、誰かに「やれ」と言われた事でもないし、自分でやらねばならぬと決めたことでもない。毎日の生活の中の些細な事でも良い。「これが出来たら素敵だろうな、面白いだろうな、次の発見に繋がるだろうな」。こういった小さなプランを幾つも書き出し、あれこれ進め方を工夫し、夢中になって挑戦し、順番にクリアしていく。
『自分アクションプラン』とは言葉を換えれば、自分で問題を見つけ、答えを考える独学だ。一日に一つは何かを身に付けようとする心持だ。
何かしらを身に付けるのだから、そこには必ず工夫と発見がある。先生もいない一人だけでの取り組みだから、チョッピリ大変だけど、それが醍醐味でもある。

目下のところ、『自分のアクションプラン』は、先ずこのブログ゙に毎回、なるべく内容に添った写真を撮る事。
自分でも納得がいく写真が手元に有る場合は写真からイメージ出来るような文章を苦労して書く時もある。或は何か出来事に気が付き、そしてそれに合わせるべく写真を撮りにいくこともある。また文章と写真とを合わせ難いのは、今書いているような観念的な事柄を文章にする場合だ。
書いてみて全く合っていないことが度々ある。自分でも合っていないと感じるのだから、人には何の関連が有るのだろうと訝がられるのは当然だなと感じる。でも失敗しても良い。『自分アクションプラン』には失敗は付きもの。真剣に取り組んでいると、この失敗が工夫と新たな発見のひと時に変わる。そこから見えてくるものが必ずある。
失敗を重ねて、改めて友人に聞いたり、カメラの取扱説明書を読み返したり、WEBで調べたりと夢中になる時間がある。時には現地に再度足を運び撮り直すことだってある。
写真一枚にバカバカしいと笑われても、自分なりの細やかな発見や気付きがそこにあれば、毎日にリズムが生まれる。

『自分アクションプラン』の二番目は「吾妻鏡」だ。
鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの幕府の事績を編年体で記されたものだが、すでに五年も講習を受け読んでいるのに、まだ半分も読み進めていない。
「吾妻鏡」の講師になる訳でもなく、期限を切っている訳でもない。ただ自分が納得するまで読み続けると言う『自分アクションプラン』。

鎌倉の写真と歴史とブログは自分にとって三位一体だ。

『自分アクションプラン』の三番以降は省くが、毎朝、目を通すと毎日7~8個ぐらいは箇条書きで残っている。

人は何も考えず、流されながら暮らしていくのは寂しいものだ。自分が何を目的として生きているかが分からないのは切ないものだ。
そんな時、『自分アクションプラン』を持っていれば、朝、起きる目的も見つかる。

明日を待ち遠しく眠りに付きたい



嘘など許せたら

2017年03月02日 | 感じるまま

            (海蔵寺/鎌倉)
「あっ、これって嘘だな」。ハッタリか見栄か、前に言っていた事と辻褄が合ってない話や小さな誤魔化しなど、いくら巧妙に隠していても、嘘のシッポがチョロリと見え隠れすることは、案外よくある話だ。そんな時自分はアッサリ騙されることにしている。

友人でも団体関係者でも多少の嘘はあっても当然だと思っているので、嘘と承知で受け入れてしまう。「嘘じゃないの?」と問いただすことはしないし、嘘をついた人に失望したり、嫌いになったりすることも無い。
自分は人格者ではないけど、嘘をつく人には嘘をつかなくてはいけない理由があるのだろうと推測するようにしている。止むを得ずに誤魔化し、取り繕いたい状況だってあるのだろう。
その人と付き合うとは、その人を100%受け入れる事に他ならない。だったらその人の嘘も、嘘をつかなくてはいけない理由も丸ごと引き受けようと思う。

現役の頃は、話を嘘と感じたら「絶対に違うだろう!」と、問い詰め、結果として二度とその人と会わないようにしたものだったが。

家族や恋人でも最初から疑ってかかり、嘘を暴いて相手を責めても関係は深まらず前には進めない。特にプライベートなら相手の存在が大切なので嘘は受け入れたほうが自分も楽だ。許すと言うよりサラッと受け流し、忘れてしまう感情に似ている。騙されてあげるとまではいかない、相手の事情を思いやり気にしないでやり過ごす愛情もある。

嘘など許せたら愛は続いたのに---

以上は、妙齢だが見た目にも艶が無く、伏し目がちの女性に「私の話を聞いてください」と乞われ、コーヒーを飲みながら聞いて、自分が感じ話した事だ。

最近、どうしてだかこの種類の相談相手と言うか、聞き役にされることが多い。
俺だって男だ。しかし女性はすでに自分を男として見ていないのか。

人畜無害ではないぞ!と胸の奥に叫び声が上がる。