(安国論時/鎌倉)
「幸」と言う漢字の中に「辛」と言う漢字が潜んでいる。
ある小説を単行本で読みながら、文脈が前後の描写と通じていないと感じ、幾度か読み返しているうちに、「辛」を「幸」と読み間違いをしている事にやっと気付いた。改めて読み返し、意外な思いをした。
二つの文字を便箋に大きく書いてみた。
「幸い」と言う状態が、その中に「辛さ」を隠しているとは想像できなかった。
しかし、世間から幸福な人と見られている人が、他人には分からない辛さを抱えている事はあり得ること。だとすれば「幸」の中に「辛」を含んでいても可笑しくないと妙な納得をした。また逆に「辛さ」を乗り越えて知る「幸い」もあるかとも考えが膨らんでゆく。
その小説の筆者は男性だが、娘から男への手紙の描写では「二度とお会いしない決心ですから、この手紙も出さないでしょう」又「書き終えたら海に捨ててしまうかもしれません」と始まり、心の苦しみ、苦悶、苦悩などの感情の描写に思わず引きずりこまれてしまった。
秋深まる亡父の故郷である見も知らぬ久重山から竹田までの六日間の旅。「父の故郷の町には、母や私の贖罪の泉があるのでしょうか」。と宿々で認めた長い手紙だ。
鎌倉での茶会で思いがけない出会いの男と母娘。
母は成長した男に、昔の想い人だった男の父の面影を見出し、茶会の後、円覚寺の山門の陰で待つ。そして一夜を共にしてしまう。
二度目の逢瀬の後、母は愛に追い詰められたのか、自らの命を絶ってしまう。
やがて、それらを全て知っている娘も男と契ることになる。その翌日から連絡は一切取れないような無言の別れをする。
長い手紙には、「美しい夢が破れたのか、醜い夢から覚めたのか、どちらか分かりません」また早く母や自分を忘れて、他の人との結婚をするように綴られている。
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幸福と言う心情は、幸福に浸りきっている状態ではなかなか意識が出来ない。むしろ挫折を経験して、その辛さを克服した時に強く意識する心情に違いない。