海側生活

「今さら」ではなく「今から」

長い手紙

2015年11月19日 | 感じるまま

                     (安国論時/鎌倉)
「幸」と言う漢字の中に「辛」と言う漢字が潜んでいる。

ある小説を単行本で読みながら、文脈が前後の描写と通じていないと感じ、幾度か読み返しているうちに、「辛」を「幸」と読み間違いをしている事にやっと気付いた。改めて読み返し、意外な思いをした。

二つの文字を便箋に大きく書いてみた。
「幸い」と言う状態が、その中に「辛さ」を隠しているとは想像できなかった。
しかし、世間から幸福な人と見られている人が、他人には分からない辛さを抱えている事はあり得ること。だとすれば「幸」の中に「辛」を含んでいても可笑しくないと妙な納得をした。また逆に「辛さ」を乗り越えて知る「幸い」もあるかとも考えが膨らんでゆく。

その小説の筆者は男性だが、娘から男への手紙の描写では「二度とお会いしない決心ですから、この手紙も出さないでしょう」又「書き終えたら海に捨ててしまうかもしれません」と始まり、心の苦しみ、苦悶、苦悩などの感情の描写に思わず引きずりこまれてしまった。
秋深まる亡父の故郷である見も知らぬ久重山から竹田までの六日間の旅。「父の故郷の町には、母や私の贖罪の泉があるのでしょうか」。と宿々で認めた長い手紙だ。

鎌倉での茶会で思いがけない出会いの男と母娘。
母は成長した男に、昔の想い人だった男の父の面影を見出し、茶会の後、円覚寺の山門の陰で待つ。そして一夜を共にしてしまう。
二度目の逢瀬の後、母は愛に追い詰められたのか、自らの命を絶ってしまう。
やがて、それらを全て知っている娘も男と契ることになる。その翌日から連絡は一切取れないような無言の別れをする。

長い手紙には、「美しい夢が破れたのか、醜い夢から覚めたのか、どちらか分かりません」また早く母や自分を忘れて、他の人との結婚をするように綴られている。
----------

幸福と言う心情は、幸福に浸りきっている状態ではなかなか意識が出来ない。むしろ挫折を経験して、その辛さを克服した時に強く意識する心情に違いない。


居眠り

2015年11月07日 | 感じるまま

(光明寺/鎌倉)
『寝る子は育つ』と言う言葉がある
日常の暮らしの中から生まれたような言葉である。泣いてばかりでいて親を困らせるような赤ん坊ではなく、乳を飲めばスヤっと眠ってしまうような赤ん坊は親にとっても有り難い。そしてそんな子は元気にスクスクと育つに違いない、との願望を込めた気持ちが、その短い語句に込められているに違いない。

当たり前の事をふと考えたのは、それなら良く寝る年寄りはどうなのか、が気になった。
子供は良く寝ることで、よく育つだろう。では年寄りは良く寝ると、その先どうなるのか?今さら育つ余地は残っていない。せいぜい老化の速度が鈍るとか、病気に罹るケースが少なくなるというぐらいで満足しなければならないのか。

振り返れば、ここ数年の間に急に良く眠るようになった。夜間の睡眠の事ではない。昼間の居眠りの話だ。電車で座れた時などは、あの振動の為なのか必ずと言いて良いほど睡魔が襲ってくる。また昼食でお腹が膨らんだ後は、必ずと言ってよいほど眠くなる。毎回の事だが、13:30から始まる『吾妻鏡』の講義でも、講師の低い声に引き込まれるように、始まって五分ほどで居眠りの時間だ。又つい先日も法要の席で、和尚さんが打つ木魚のポコポコ音の単調なリズムに、まるで睡眠導入剤を呑んだ時のように静かに深く眠りの世界に入ってしまった。隣に座っていた叔父さんに「焼香の番だよ」と耳元で言われてしまった。しかし夜の睡眠が不足しているとは思えない、充分にとっている。

だいたい年寄りは若い人より居眠りすることが多いようだ。年寄りが(自分も)それほど良く居眠りをするのは、若い頃の不摂生や寝不足のツケが今、回ってきたのかとも思ったりする。しかしその原因を知るよりも、こんなに良く眠る老人の今後が気になる。

余りにも度々眠ったら、その先の眠りの時間がなくなってしまうのではないか、また永久に眼を覚ますことを忘れてしまったりしないだろうか。
気にかかる。