海側生活

「今さら」ではなく「今から」

 自己アピールを

2018年12月17日 | ちょっと一言

(浄智寺/鎌倉)
自慢話を延々と話す人がいる。話す時間が長いと聞いていて不快だ。一方的にされる自慢話は不愉快だ。

一方、シニア世代の人は、自慢をしてはいけないとか、自慢は恥だという思い込みが他の年代に比べて強いように感じる。

しかし自慢は大事な自己アピールだと思う。
人には自分は価値のある人間だと思うことも大事だ。ひとかどの人物だったという自慢もあれば、豪傑自慢、モテ自慢や失敗自慢もあるだろう。いずれにせよ他の人とは異なる自分のストリーを語ることは、集まりの中では大事だ。それをなくすと、自分や尊厳を失い、やる気もうせて失せてしまう。自分の価値を認識して生きていきたい。自慢しないで誰にも自分の価値を分かってもらえずに悶々と暮らすよりも、アピールする部分はして、スッキリと過ごす方が楽しい筈だ。
組織や現役から離れ、一人で生きて行く時、かっての活躍、かっての輝かしい行動などを知っている人は少なくなるけど、それを他人に分かってもらうには少々自慢をしてこそ楽しい日々が持てるのではないだろうか。

ただ、シニアになって自慢するとしても過去の出来事が殆どで「古い話を聞いても誰も有り難くは思わないだろう!」と話を引っ込めてしまう。しかし古い話でも良い。シニアが持っている経験談や情報は、たとえ過去の話でも、そこには本人は気がついていない長年の人生経験で培われた知恵が潜んでいるものだ。

友人にいつも自慢している人がいる。特に大勢の集まりの時にその能力は発揮される。そのため場は和み常に笑いが絶えない。彼の自慢話の後には必ず失敗談が付いてくる。


分かりにくい

2018年10月20日 | ちょっと一言

     (材木座から)
この会社は何を作っているのか、何を売っているのか、つまりどんな会社か分からない社名を持つ会社が増えた。

○○銀行、××製鉄、△△製薬、と言えば、それなりに一見して業種が分かる。しかし近年の流行かもしれないがアルファベット三文字だけや片仮名だけの会社名では、何の会社か推測すら難しい。「オレの会社の内容は改めて言わなくても世間が知っているはずだ」という驕りにも似た空気を感じさせる。
そんな会社は社内に緊張感もなく社会的な使命も持ち合わせていないのだろうと思う。

先週のある日、日本の株価は1000円を超す下げを演じた。
興味本位で東京証券所市場のその日の値下がり率上位の30社をリストアップしてみた。結果は予想を超え、26社までが社名に漢字が一文字も入っていない会社だった。また今年、新規上場を果たした会社を見てみると82社の内、社名に一部でも漢字が使われているのは15社だけだった。

流行を追う政治家も困る。国政であれ、地方であれ自分の名前を平仮名に書き換える人が増えている。
そんな政治家はおそらく信念がない人なのだろう。もちろん世間には読み方が分からない難しい漢字を使った本名があるものだ。選挙にはプラスにはならない。そういう場合の平仮名書きは当然だ。しかしそれ以外の理由で選挙のポスターに平仮名名前を見ると白けた気分になってしまう。
人は運命をそのまま受容すべきなのだ。名前どころか病気や才能のある無しまで受け入れ、それらを全て自分の属性として勇気をもって使うべきだ。そう言う基本的な姿勢を持たない人に政治をされたら困る。

公を目指すなら、自分を知ってもらうためのあらゆる努力をする姿勢は、社会や世間一般に対する礼儀正しさと謙虚さと緊張の表れではないか。

握手は馴染めない

2017年01月06日 | ちょっと一言

(鶴岡八幡宮にて)
おめでとうございます!」と赤ら顔の男性が街中で握手を求めてきた。

近頃、同年輩の知人に会うと「暫く」とか「やぁどうも」などと言って手を差し出されることがある。さして意味のない場面で、何ということなく握手をする習慣に慣れていないので、その度に戸惑ってしまう。闘病を終えたとか長い外国生活から戻った、あるいは特に親しみを表したい相手とは自然に握手が出来るが、「やぁ」と言う感じでの握手が、どうも好みに合わないと言うか馴染めない。

人と人との間には、落ち着いた気持ちになる距離があるのではないか。
例えば人が立ち話をする時、皆がだいたい同じような距離を置いて向かい合っている。それ以上に近づけばお互いに重苦しさを感じ、それ以上離れれば話しにくい。男性と男性が向かい合う距離に比べ、女性と女性の場合は一歩近いような気がする。とにかく人には他者と向かい合う時には心の休まる距離があると思う。

それなのに握手をしようと言う相手は、その微妙な距離の結界みたいなものを、いとも簡単に踏み越えて右手を差し出しながら、グイとこちらに近づいて来る。それは日本人らしい繊細な心情を蹴散らかされた感じを受ける。確かに欧米のマナーを身に付けた人達が、日本社会でも多数を占めるようになり、その結果として、日本人に根付いたのかもしれない。

例えば、自分が出会った場合、二人がお互いの結界を確認し、その人に相応しい流儀のお辞儀をして、それから親しみの中に入ってゆく。手を握り合ったり、肩を叩き合ったり、肩を抱き合ったりするのはその後であって、先ずお辞儀ありだ。

今、お辞儀の時代から握手の時代へと、切り替わりつつあるようだ。

しかし、日本人に最も良く似合うお辞儀が消えてしまうのは忍びない。お辞儀の美しさをわきまえた上、場面によっては握手をする構えが、現代の日本人に最も相応しいと思う。

お屠蘇が残る我が身を振り返りながら考えた。

酒作法

2016年12月26日 | ちょっと一言


酒が美味い季節になった。
と言っても酒飲みと言う人種には、夏は夏でキリキリと冷えたビールが美味い。春は春宵値千金のカクテル。秋は秋でまろやかなワインかブランディなどと、結局どの季節も酒には良き時候とばかり、嬉しがっては祝い酒、悔しがってはヤケ酒と、酒が似合うのはいつもの通り。特に冬は日本酒が美味くて身に沁みる。

何かと飲む機会が増えるこの時期に酒の作法について、かって人並み以上に酒飲みで、気分が乗ると今でもその酒飲みの習慣が出てきそうになり、事ある毎に我慢し自重している自分だが一言。

先ず酒を飲んで酔っ払ってはダメだ。
「なにィ、酒を飲んで酔うなだと!酒は酔うためにあるもんだァ、何を抜かす!」と怒られそうだが、確かに酒は飲めば酔う。酒好きにとっては、酒はどの一口も美味いに違いないが、特に美味いと感じるのは、少し過ぎた頃からだ。しかし、酔っ払いが、同席した友人にも果ては酒場でも嫌われている現実を是非とも知っておいて欲しい。子供と酔っ払いは説明しても分からないから大嫌いだと言った人がいるが素直に納得できる。
経験から言えば、水割りなら何杯、お銚子なら何本飲んだかを、自分で覚えていられるまでだ。更に飲んだら騒ぐな、口説くな、踊るな、暴れるなと言う事だ。
そんな窮屈な酒なら飲まない方がマシだと言う人もいるだろうが、酒作法とは、良い気持ちのホロ酔い持続がその極意だ。要は愉しんでもトコトン酒に甘えちゃならぬと言う事だ。

辛口の日本酒を人肌で、自分好みの肴を用意してくれるこじゃれた裏路地の店で、今宵も一献、内なる己の声に耳を傾けよう。

 健やかな新年をお迎えください。


知っている

2016年05月13日 | ちょっと一言

           (安国論寺/鎌倉にて)
埼玉県で一人の少女が、22歳の夫に殺された。

我々は少女の最後を知っている。夫に主導された少年グループが。墓苑の駐車場でハンマーと石材を使い、少女の頭を順番に殴り遺体に火を付けたのだ。万引きや傷害を警察に密告されると恐れての犯行だったらしい。夫はカード詐欺により執行猶予中で、その若さで結婚は四度目だった。
これだけではない。我々は、どんな風に少女が高校を中退したかを知っている。友人にどう思われていたかも、育った家庭の環境が複雑であったことも知っている。更に少女が働いていたスナックだって、行った事がないのに店主の顔さえ知っている。

少女の二つお顔を思い浮かべるのも簡単だ。学生だった頃の純朴な顔立ちと、働き始めて流行りのメークをした大人びた顔も知っている。明るい茶色の短髪と同じ色の細い眉、それでも少女はまだ16歳でしかなかったのだ。

この事件の当事者を知っていた訳ではないし、特別にこの事件に注目していた訳でもない自分が、犠牲者の事をこれほど知らなければならないのか。死者について集中豪雨のような報道をするのは何故なのか。何故、被害者は殺害された上に身上の全てを暴かれなければならないのか。
これは、特に残された身内にとって二次被害ではないのか。
事件が起きる度に自分は思う。この国には死者に人権は無いのかと。

被害者に関する報道はそろそろブレーキを掛ける必要がある。報道側も受け手側もどこに一線を引くべきか。他所事ではなく皆が考えなければならない。


どうぞ別の惑星へ

2016年04月12日 | ちょっと一言

(葛原岡神社/鎌倉)
それを学識経験者と言うのか知らないけど、最近偉いと言われる人は、会話の中にやたら横文字を使いたがる。

土地の人達が軽く呑むカウンターだけの、七人も座れば肩が触れ合うほどの小さな居酒屋で、他所から初めて来たと思われる一人の男が、時々は相槌を打つ店主に自分だけが一方的に喋っている。話の内容は否が応でも耳に入って来る。
話の中にやたら横文字の言葉が多い。最初は、どんな職業だろうかと興味を持った。話の内容から自分は時事に疎くなってしまったのかと不安になり、その内に話に一貫性が無いぞと気が付き、やがてその言葉の意味が分からなくなり、どうか日本語で喋ってくれと言いたくなった。

その男は日本語で言えば言えるくせに、わざと横文字を使う事で自分を偉そうに見せたがっていると言うのが、出した結論だ。

勿論、横文字でしか表現が出来ないものや既に一般名詞化してしまった言葉も数は多い。しかし初めて聞くような外来語を、さも得意げに乱発する輩は、ハッキリ言って嫌いだ。又そんな輩に限って、最近の女学生の流行りの言葉を会話に挿入して得意になっている。
よほど「花のチューリップを日本語で言って!」って言いたくなったが言葉を飲み込んだ。こういう国語破壊者からは日本国籍を剥奪すべきである

またその男がどこに住んでいるか知らないが、自分と同じ地球に住んでいるのなら、お願いだから別の惑星に移って自分の言葉を思う存分に使って欲しい。

正しい日本語を喋り合えて初めて、我らは日本人として通じ合える。

みっともない

2016年03月22日 | ちょっと一言

       (鶴丘八幡宮)
みっともないことが全く多い。
「みっともない」<見とうもない!の促音化。見るに絶えない。また外聞が悪い、の意>と辞書にはある。

ワイドショーで大騒ぎの経歴詐称の経営コンサルタント。三年間で特定の場所に日帰り出張を345回も繰り返し800万円を政務活動費として支出していたある県の県議。釈明会見では号泣した件など記憶に新しい。

先日も日中の上り横須賀線の電車内でまた出会ってしまった。みっともなく、見苦しい光景に。
25歳ぐらいの女性が座るなり、やおら化粧を始めたのだ。初めて目にする光景ではないが、見ていると眼を上に下にと、ある時は横に向け、また口を左右にねじ曲げながら化粧が進んでいく。表情が矢継ぎ早に変化する。化粧道具が小さい道具入れから次から次へと登場して来る。周囲の眼は気になっていないようだ。やがて睫毛を上下に付け終わった。顔は元の面影はない。スッカリ変わってしまった。女と言うものはこんな風に自分を変化させてゆくのかと改めて感じ入る。最後に手鏡にニコッと笑いかけ作業は終わった。

女はこれから会う人の前で化粧はしないだろうに、全くの他人の前では平気なのか。或は車内で化粧をしなくてはならない特別の理由があるのだろうかと想像を巡らした。

その後、呑み屋で話題にしたら、ある40歳代の女性が言うにはアイメークに多くの女性がこだわるようになり、化粧時間が長くなった。その結果、家の中だけでなく、メーク時間が移動途中にまではみ出すようになった。また別の女性は、化粧は他の車内でのどんな迷惑行為よりも、人に迷惑をかけていないと思うと言う。
一方、パジャマ姿で電車に乗って隅っこの方で着替えられるのと同じくらい嫌な気分がすると言う意見もあった。隣の男性は、電車の中で化粧するのって、男が街中で立ションベンするのと変わらなく恥ずかしいと言った。

しかし、化粧室という言葉を知らない人はいないと思うが、なぜトイレが化粧室と呼ばれているか?それは用足しも化粧も人前でするものではないという意味があるからではないか。まさか用足しを人前でする人間はいないだろう。

化粧を見届け、目元パチパチの女の顔をこれ以上は見たくなかったので隣の車両に移動した。座り直して考えた。自分の事は差し置いて、こうしてヌケヌケと他人の行為を批判するなんて、これまたみっともないなと。

独断と偏見で書いたが、男は見栄によって生きているものと昔から信じてきた。見栄は男の美学であり、見栄が崩れると男は崩壊する。女も同じである。

粋な香り

2016年02月21日 | ちょっと一言

(東慶寺にて)
マティニーと言う飲み物がある。
ジンとベルモットで作るのだが、通ほど、このベルモットの量にこだわる。少なければ少ないほどドライで粋と言うわけだ。小説『007』のジェームス・ボンドもそんな一人で、超ドライのマティニーが好みだった。しかもシェイクするのではなく、マドラーでかき混ぜるだけのものを愛飲した。

たまに立ち寄る赤坂のバーでは、頭髪に白いものが見え始めたバーテンダーが、大きめの氷をベルモットで洗い、そのベルモットの香りのする氷をシェイカーに入れ、ジンを注ぎ入れ素早くシェイクする。キリッと冷えたものをグラスに注ぐ。その手際と素早さには、いつ観ても惚れ惚れしてしまう。

マティニーに入れるベルモットの分量は女の人が付ける香水のようなものではないかと思う。
カウンターに他の客がいないのを幸いにバーテンダーが問いに答える。「ベルモットの分量が多くても少なくても他人には迷惑は掛けませんが、香水の付け過ぎは店でもはた迷惑になるから罪が重いです。耳の後ろや手首などの脈打っている身体中に全部点々と付けたら、それは付け過ぎでしょう。香水も少なければ少ないほど粋ではないでしょうか」
やはり、香水はふとした拍子やすれ違いざまに微かに香るものではないか。その儚げな残り香こそ異性を惹きつけ優雅ではないだろうか。

男は良く香水臭いと言う言い方をする。臭いと言うのは嫌悪を表している。すれ違う5メートルも手前から匂って来るほど付ける人は何か特別な訳があるのだろうか。すれ違いざまに思わずクシャミをしてしまいそうになる。いずれにしても香水臭いと言われるのは女の恥ではないか。

香水と言うのは臭いのではなく、香り良く匂うものでなければならない。

香水をつける時、赤坂のバーテンダーやジェームス・ボンドのようにベルモットのこだわりを思い出せば、粋な香水の達人になれるかもしれない。



オフクロの味

2013年03月11日 | ちょっと一言

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                          (海蔵寺/鎌倉)

『オフクロの味』でイッパイ飲もうということになった。

狭い店内だ。八人も座れば肩が隣の人とぶつかってしまいそうだ。カウンターの上の段には肉ジャガ、ひじき煮、キンピラ、切干大根、卯の花、卵焼きなどが大皿に盛られ並べられている。

進学や仕事や結婚などで親元を離れたとき初めて気づく親心。さらに年齢を重ねるほど恋しくなるのが「オフクロの味」だった。
「オフクロの味」は、出身の地域差や個人差が大きく表れ、伝統的な調理方法が継承された家庭料理によって養われる味の記憶だ。また母親の持つ暖かいイメージから生み出される優しさに溢れた味のことでもあった。

昨今、「オフクロの味」と言う言葉は家庭の外でしか聞けないようになった。弁当屋とかコンビニとかデパートの食品売り場だ。
若い世代にとって、これらは親元を離れてから、居酒屋で始めて食べる味であることが多いらしい。しかし実際の郷愁とは無縁のようだ。出来合いの料理に慣らされ、こういった素朴な料理が珍しいだけかも知れない。

現代日本の「子供の頃、良く食べた事のある我が家の味」は、ハンバーグ、カレー、フライドチキン、ピラフ、スパッゲティーなどの、カタカナ系に占められるとある。
それらは手作りではなく、インスタント食品や冷凍食品・レトルト食品などの簡便で半調理済みの「袋もの」だ。それは「オフクロの味」では無く、「袋の味」と言える。

どこの家庭にも数種類の袋が備蓄されている。だから袋さえ見つければ親が不在でも何らかの食事は出来る。しかも、その袋は料理界のカリスマがプロデュースしたものだったり、厳選素材だったり、おまけに家庭では出せない味だったりする。
無理して手作りに拘る必要も無いが、せめて「楽しい食卓」の演出はしたほうが良い。

なるべく一緒に食べよう!それが無理ならせめてメモを添えよう!部屋を明るくして清潔な器に、「袋」の写真より美味しそうに盛り付けしよう!
その一手間で「袋」が「オフクロ」へ、グッと近づく。

お開きにシジミの味噌汁を頂いた。


小さな事

2013年02月25日 | ちょっと一言

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                   (ロウバイ/明月院・鎌倉)

『離婚してもイイわ』
子育てが終わろうとするある妙齢の女性が言う。

聞けばどうやら誤解があるらしい。
小さな事に拘るのは人としてのスケールが小さいからだと思いがちだが、そうではない。人は元々小さな事に無防備なのだ。

ほんのチョットとした事である。帰宅すると夕食の支度が出来ていなかった。イヤミな一言を投げかけず、新聞を読むぐらいの時間を我慢していれば、和やかな夕食になったのに。或いは夫婦で待ち合わせて買い物しようと言う時、奥さんが十分ほど遅れた。「約束したのだから時間はキチンと守れョ」と、駆けつけた奥さんに夫が仏頂面で小言を言う。それから三日間互いに口をきかなかった。

人は大きな不幸には耐えられる。妻を亡くした夫は雄々しく悲しみに対処するだろう。大きな事には人間はいたって強い。しかし小さな事には無力である。ガンが発見された時には覚悟して入院・手術もするが、爪を切りすぎただけでイラつき、人に当り散らしたりする。

大きな不幸には社会に順応する術がある。知らず知らずのうちに対処の作法を学習している。しかし小さな出来事は、日常の生活に付き物ながら、現れ方や現れる時の条件がいつも違っている。そのとき学習しても。次の時には、もう役には立たない。イヤミな一言や仏頂面が飽きもせず繰り返される。

これらはその人の大きさやスケール、性格と言った事とまるで関係が無い。それは生きている証のようなものだ。
現実は、小さな不幸が単調になりがちな暮らしにメリハリをつけている。

しかし争い事は小さくても、失うものは大きい。