海側生活

「今さら」ではなく「今から」

情感と結びついた記憶

2014年11月22日 | 鎌倉散策

(御焚き上げ/浄智寺・鎌倉)

軽い気持ちで参加した、浄智寺(北鎌倉)での写真供養に。初めての経験だ。

思えばここ数年、整理が追い付かないほどの写真を撮った。軽く感謝する積りで、又もう少しだけ上手くなりますようにとお願いする積りで参加した。
本堂前には特別製の、篝火の台を大きくしたような大きな釜がある。静寂な境内に響く住職の読経の後、種火が灯され参加者は順に御焚き上げて行く。自分も数枚を焚き上げた。そして早速、カメラをバッグから出した。

75歳ぐらいだろうか、小柄で頭髪は真っ白な背筋がピンと伸びている。一人で参加していた婦人の順番が来た。重そうにビニール袋を提げている。中には写真がビッシリと入っている。係りが「ここでのお焚き上げは数枚にしてください。残りの写真は後でまとめて必ずお焚き上げしますから---」。彼女はその声を無視して、地上に置いたビニール袋から片手で持てるだけを掴み取り、静かに炎の中にパラパラと入れていく。何度もそれを繰り返している。斜め後ろから手元を観ると様々な写真があるようだ。

白黒写真が数多くある。子供一人の写真や子供数など。壮年男子のゴルフクラブを手にした写真などもある。男性の白髪頭のカラー写真も垣間見えた。数百枚どころではない、その十倍は有りそうだ。彼女は15分ぐらい表情を全く変える事無く黙々と炊き上げを続けた。

フッと考えてしまった。
人生の節目毎に、日々の瞬間を切り取った写真は、もし本人が故人となったら残った写真は何の意味が又どんな価値があるのだろう?まして残された人にとって何の価値があるのだろうか、と。
情感と結びついた記憶は忘れにくい。彼女は今、どんな思いで写真を供養しているのだろうか。

ただ遺品を整理しているだけなのか。もしそうならわざわざ遠くまで重いビニール袋を提げて来て、お焚き上げをするだろうか。或は自分の気持ちや思い出に、ある“ケジメ”を付けようとしているのか。
或いは---?

大きな段ボールに無造作に眠らしたままの自分の写真の数々、いつ、どんな“ケジメ”を付けようか!!