海側生活

「今さら」ではなく「今から」

若者の門出に

2019年03月19日 | 感じるまま

(報国寺/鎌倉)
人は100歳まで生きるようになった。
100年とは一世紀だ。大変な長さだ。こんなに長く生きる時代に、二十歳そこそこ、つまり全人生の五分の一しか生きてきていない若者たちが、社会に押し出され、一人で世間を渡って行かねばならないのかと思うといかにも大変だ。

残された人生は80年かーーー。“残された“と言う表現は適当でないかもしれない。いやそれがそうでもないかもしれない。社会に飛び出す前の、つまり就学期は、人生は未来の彼方に永遠に輝いていると思える。しかしいったん社会人になった時、人生は有限な、惜しんで使うべき時間に変化するのではないだろうか。
そう感じさせるのは先ず世間の常識だ。まだまだ日本社会では、特に女性は、そろそろ結婚した方が?と言う周囲や自分の内なる声が聞こえてくる。結婚して子供を産めば、子供が人生を刻んでゆく。勿論、結婚したり子供を持つことなく、生涯仕事に生きる女性にとっても良く似たことが起きる。今日中に、今週中に、今月中になさねばならない仕事や約束事に追いかけられる。仕事が人生を刻み、次から次へと時間を消費してゆく。そして人は遅かれ早かれ気が付く。「あぁ、私の人生がどんどん少なくなっていくーーー」と。
学生だった頃は、人生を創り出していた気分だったのが、社会に出てからは、消費する気分に移ってしまうことになる。本来なら生まれた時から消費は始まっているが、一人前になる前には、そのことを忘れている。

大人として旅立つ時、先ずこのことを肝に銘じるべきだ。これから人生が少しずつ減ってゆくのだと。
これは悲観でない。大人になると言う事は、この現実を常に心のどこかに置いておくことでもある。

そんな事を。しかしまるで考えもしない、想像したことも無い若者たちが何と多いことか。何も考えないで三十台半ばまで来てしまった“元若者”もいる。それでも男性は会社の中に取り込まれ、仕事をこなす歯車として働き、人生が目減りしていることに気が付かないで済むかもしれない。しかし男性ほど組織に帰属していない女性たちは、突然発見することになる。「あら、自分の人生が減ってしまっている。でも自分は何をしてきたのか!」この手の悩みの何と多いことか。

かけがえのない人生の経験を無自覚に生きてきたのが分かる。今日の一日は消費されて無くなる一日だと自覚がないまま三十代半ばまで来てしまったということらしい。
これでは客観的にどんなに恵まれた状況を生きても、熱のこもらない、また感動の無い人生になってしまう。

“贈る言葉”を書きたかったのに、お説教臭くなってしまった。

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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
石段のある寺 (宮本靖夫)
2019-03-22 09:53:27

 新社員一段ごとの景色かな     峨々

報国寺といえば、孟宗竹で有名ですが、こんな石段には気づきませんでした。味わいのある石段ですね。これから世の中に出て行く若者は一段ずつ登っていくのでしょうが、早く登ることではなくて、一段一段かみ締めながら登って欲しいですね。
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