海側生活

「今さら」ではなく「今から」

怖いもの

2012年06月26日 | 感じるまま

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                   (台風一過/逗子・小坪)

瞬間、怖いと感じた。

先週の台風では、通過する二時間ぐらいの間、強風が吹きつけ、固定された窓ガラスがボコボコッと聞きなれない変な音を立てている。時折その風に運ばれてきた海水がバシャッと窓を叩き付けている。窓ガラスが割れ、部屋の中に破片が飛び散ったら怖いと感じ、部屋のカーテンを閉めたほどだった。

怖いと言えばこんな事があった。
パソコンの周辺機器が欲しくて家電量販店に行った。欲しかった物を購入し、外に出てすぐ近くのカフェに入った。
機器の説明書を開いてコーヒーを飲んでいると、賑やかな声を振りまきながら女子高校生と思しき5~6人が隣の席に陣取った。
賑やかだ、賑やかと言うより煩いぐらいの大声だ。話している声も大きいが身体も大きい。中には相撲の往年の大横綱みたいな体格の子もいる。決して小さくないお尻や腿が椅子からはみ出している。体当たりでもされたら55kgのこの身体は簡単に飛ばされてしまう、正直に台風よりも怖いと感じた。
彼女達は各々が甘い菓子類を注文し、飲み物は床に置いたカバンから水や何か飲み物をテーブルに取り出し口に運んでいる。

やがて会話が始まった。手には全員がケイタイやスマホを手にしている。片手でそれらを器用に扱いながら会話が弾んでいる。
聞こえてくる会話は、あるTV番組の内容に対して、誰かのツイッターに対してツイートしている内容を交互に紹介し合っているようだ。まるで何かの発表会みたいだ。時々笑い声が弾けている。でも会話に出てくる意味が解らない言葉も多い。
      
そのうち気が付いた。
彼女達には自分の意見が無い。仲間内に話題を提供しているだけなのか、それとも情報を共有しようとしているのか。或いは本当は自分の主義・主張は当然あるけど、それを仲間内に公にするのは、何か不都合な事でもあるのか、或いは仲間内のルールなのだろうか。
学校生活では、自分は決して主張しないで、ウエブ上の人の意見や批判を自分のそれに置き換えているのかも知れないと考えたら、何だか楽しそうに見える彼女達の友達付き合いが凄く窮屈に見えてきた。
  
最初は「オジサン!」とでも声を掛けられたら、どうしようかと内心ビクビクして、小さくなり黙って前を向き、説明書を読んでいるふりをしていたが、やがて本音を吐けない彼女達が愛おしくなった。

いつも間にか、最初に感じた怖さはどこかに消えてしまっていた。


今、咲き誇る

2012年06月19日 | 鎌倉散策

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                         (長谷寺/鎌倉)

今日はチャンスだ。シトシトと雨も早朝から降り始めた。

紫陽花や菖蒲は雨に良く似合う。
新しいカメラを肩から提げ、逸る気持ちを抱えながら、鎌倉のある古刹に向かった。

レンズを向けながら気が付いた。
紫陽花は艶やかで華やかなのに、何か心寂しくてうら悲しく、それ故に心に沁みるのは、シトシトと降り続ける梅雨のためではなく、潔く散ることが出来ないからだと。
パッと咲きパっと散る桜と、最も対極的なところにある花が紫陽花である。色にしても、青から赤へと変化し、その中間色にはどこまでも続く底知れぬ深さがある。そして全てを出し尽くし、それでも尚、散ることが出来ない哀しさがある。

この花について新しい事を知った。あの花の色の変化はアルミニュームが作用しているとか。
アルミニュームは酸性土壌、つまり痩せた貧しい土の中に、より多く溶け出す。紫陽花はこの溶け出したアルミニュームを吸収し、花に蓄え、花の色を変える。
つまり紫陽花は豊かな栄養満点の土壌では、その際立った能力である花色の変化が上手く出来ないことになる。貧しさを励みとし、大輪の花を咲かせ、微妙に色を変えながら、華やかに咲き誇る。

しかし実を結ぶ事は無い。

梅雨の長雨に打たれると、それでなくても重たげな頭を少しずつ垂れていく。そして濡れた地面に顔を摺り付け、やがて老い、大地に寝そべり、花は汚れて腐っていく。そして夏の陽の下に茶色く乾いた無残な形骸を晒す一生---。

干からびた茶色い花は甚だ見苦しい。
そして切ない。

その思いを振り払うかのように、夢中でシャッターを押し続けた。


怒号が聞こえる絵

2012年06月12日 | 鎌倉散策

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                                                        (東慶寺/鎌倉)

展示室では「立ち止まらないでお進み下さい」と誘導していた。

『ひそかにおもんみれば、三皇五帝の国をおさめ、四岳八元の民をなづる-----』で始まる平治物語。この絵巻の一部の「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」が展示された。

鎌倉幕府の創設と源頼朝の研究を始めて三年目、歴史探訪家としてどうしても見たかった。この「三条殿夜討巻」は日本には無い。10万点を越える日本美術を収集しているアメリカのボストン美術館が所有者で、今回東京国立博物館で仏像・仏画・水墨画等90点を展示した、その中の一点だ。

保元の乱の三年後の平治の乱(1159年)は、武士の台頭を示す大きな変革の一つであり、源平争乱の幕開けともなる戦いだったとされる。源頼朝は13歳で表舞台にはまだ登場してない、平清盛は41歳の時の出来事だ。

『三条殿夜討巻』は、藤原信頼が源義朝(頼朝の父)とともに平清盛の留守をねらって上皇の御所三条殿を夜襲し、上皇を車にのせて内裏へ渡す一方、義朝は宿敵信西を求めて果たさず、御所に火を放ち狼藉の限りを尽くすところを描く。この一巻は慌しい人馬の動きで始まり、紅蓮の炎の下で敵味方入り乱れ、繰りひろげられる凄惨な光景、そして次第に隊列を整えながら引き上げていく武士団まで、絵巻としては幅広の一連の長大な画面を、時間の経過と共にダイナミックに構成し、堂々とした建物の描写、武者たちの機敏な動勢、武具装束なども冷徹なまでに表現されている。

しかし入場者が極端に多い、肩がぶつかり合うほどだ。しかも展示室は薄暗い、眼を凝らさないと細部は見えない。何せ800年前頃に描かれた絵だ。茶色に変色もしている。それなのに「立ち止まらないでお進み下さい」と係りは誘導していた。絵巻は横700㎝足らず、縦40㎝余りしかないのに歩きながら観られるわけが無い。もっと時間をかけて観たかった。

学校では冒頭の一部しか習わなかった古典は、前文を何度も読むうちに、古典が現代に残っている理由や意義がわかってくるような気がする。


弘法も筆を選ぶ

2012年06月05日 | 興味本位

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                                              (本家の庭で/唐津)

写真のプロに同行して指導を受けながら、同じ撮影地で、同じモノを撮っても、プロの写真と自分の写真を比較すると、何かが違う。

気が付いた。カメラの性能が違うのだと。
自分はデジタルカメラの言わば入門機をこれまで使ってきたが、プロが仕事で使うカメラと、誰でも簡単に使える入門機では性能に大きな違いがあるのは当然だ。

「弘法、筆を選ばず」と言う諺がある。
弘法でもないのに、機材を選ばないで上手く撮りたい、キレイに撮りたいと思い上がった考え方を捨てる事にした。

道具にこだわれば、遊びはもっと楽しくなる経験を今更ながら思い出した。
車や釣りや蕎麦打ちに関わらず遊びのこだわりと言えば、やはり道具を抜きにしては語れない。良い道具を手に入れる喜びや使う快感は、趣味の持つ健全な愉しみの一つだった。

新しいカメラを手にした。早速、撮ってみた。確かに写りが違う、機械の性能が高い分キレイに写っている。画像の解析度も従来のカメラに比べ二倍はある。しかし随分重くなった。重くなった分、きっと腕も上がるに違いない。

古来より書道の世界では、文房具が一つの趣味の世界を形成しているほどで、筆・墨・硯・紙の4つが特に「文房四宝」として尊重されてきたようだ。聞けば弘法の筆も、楷書・行書・草書用の小筆と写経用の4種あったらしい。
結局、弘法も筆を選んでいたのだ。

これから自分の写真も見違えるほど良くなるに違いない、多分--。