海側生活

「今さら」ではなく「今から」

変わらないもの

2012年10月31日 | 最大の財産

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                     (大川内山/伊万里)
故郷は、いつ足を運んでも新しい何かに出会う。

区切りの年齢の高校の同窓会に出た。
前日に着き、旧友Iを訪ねた、『よぉっ』と、軽く手を上げ、まるで昨日会ったばかりのような態度だ。奥さん・Kは『いらっしゃい』とニッコリ、いつ会っても若い。大皿に盛られた玄界灘の魚の刺身に箸がすすむ。口の中に故郷が広がる。

墓参りの後、『どこか行きたい所はない?』とT,Iが聞く。
『大河内山に行こう』 。三方を山に囲まれ、山水画にも似た切り立つ大屏風奇岩の景観が目に飛び込んでくる。江戸時代の廃藩置県までの約200年間近く鍋島藩の御用窯が置かれ、世界の至宝・鍋島とも呼ばれた。そして、その伝統や技法が現在の伊万里焼にと繋がっていると記憶が蘇ってくる。
秋の穏やかな陽を浴びながら石畳の坂道を歩いた。一軒の窯元に飛び込んだ。楽焼をした。身内が健康サロンを開業した、その成功を祈念して「Congratulations!」と描いた。持ち慣れない細い柔らかな筆先に上手くは描けなかった。
T,I
は側に座り何も言わない。黙って見ていた。

窯元が立ち並ぶ町外れの権現岳神社にお参りしようという事になった。清水を汲みに列を成している人たちを横目にしながら階段を上り始めた。急な階段だ。20~30段段毎に設けてある踊り場を幾つか過ぎる頃、膝が笑い始めた。足を停め、来た道を振り返ると改めて急な階段だとわかる。思わず手摺を握り締めた。ふとIと共にコートや野山を、時間を忘れ走り回ったバスケット少年時代の体力や思い出が鮮やかに蘇る。
やがて踊り場に差し掛かる度に足を止めた。その踊り場が、これまで自分が歩いてきた道の10年毎の区切りのように思えてきた。
息を切らしながら自分の30代、40代、50代更に60代と追想してしまった。

追想も終わりかけた頃、400段近い急な石段を上りきった。そこからは遥か彼方に少年時代には無かった伊万里湾大橋も見渡せた。

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そそり立つ岩壁の中腹に、東西に貫通した岩穴があり、その中に鎮座する神社にお参りの後、後方の崖に目を向けると、ある一点だけが真っ赤に燃えていた。ハゼノ木だ。
人が近寄れない無人の岸壁を見て賞賛する人もいないのに、いつも同じように紅葉すると思うと哀しい。
多感な少年時代をすごした故郷に、こんなにも厳かで、風光明媚なところがあるとは知らなかった。

T,Iは限られた時間を自由に過ごさせてくれる。
別れ際にIは『じゃ元気で』と言葉は少ない。

友を想う事は楽しい。文字に書き表すよりは、一人で想っている方が更に楽しい。T,Iが居るから、又故郷に足を運びたくなる。

変わらない人の情けも身に沁みる季節になった。


風の便り

2012年10月22日 | 季節は巡る

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                           (鷹の羽ススキ/浄智寺・鎌倉)

先日の暴風は「いなさ」と言うより、まさに台風だった。
海から吹きつけた強風は飛沫を運び、辺りの樹木や草花にも容赦なくその爪痕を残して去って行った。

一週間が経った。
強風に煽られ吹き付けられた潮に、裏山に群生している樹木の色は、常緑から赤茶けた色に変えてしまった。景色も大きく変わってしまった。目を引くのはマンションの入り口近くに植栽されている貝塚息吹だ。まるで一人芝居の演者の衣装のように、左右の色がクッキリと違う。飛沫を浴びた海側半分は茶色に変色し、右側半分は従来の緑色のままだ。

風は、地域によってさまざまな性質を持った風が吹き、その地域の独特の気候や風土を形作っている。その地域の気候を温暖にしたり、恵みの雨をもたらす風もあれば、農業や漁業に重大な影響を及ぼすものや、人間の生活にとって脅威となるものもある。その地方独特の名称で呼ばれている風もある。中には神話や伝承に関連した名前も多く、また方角と関連付けられた名前も多いと言う。

季節に吹く風やその地方特有の呼び方など、2000以上の呼び名があるそうだ。
日本人は古来から風にも呼び名をつけて、移ろう季節を感じとってきた。

北の国では「雁渡し」が吹き始める頃だ。九州では今でも「南風」(はえ)だろうか。

日常生活にも風を取り入れた日本語が多い。
 
「風の吹き回し」で始めたこのブログも、友人に対し「風の便り」の積りで書き続けている。「順風」とはいかないが---。
「風変わり」な奴と思われるでしょうが「馬耳東風」と流して貰いたい。

鷹の羽ススキが秋風に揺れている。

秋が静かに深まっていく。


男のフェロモン

2012年10月10日 | 感じるまま

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                   (紫式部/浄智寺・鎌倉)

男には独特の臭、匂がある。

知人の奥さんが言う。
『主人は50代になった途端、枕からオヤジ臭がするようになった。嫌な臭いじゃないがいくら洗っても取れないの』。
男は新芽のような匂いの幼年時代、甘酸っぱい匂いの青年時代を経て、社会の辛酸をなめながら自分の体臭と付き合っている。

男の匂いを歴史から見れば、聖徳太子の身体からは常に芳しい香りが漂っていたと言う。又源氏物語の「光源氏」を初め「薫の君」も「匂宮」も際立ってよい香りがしたとある。

鎌倉の居酒屋での話し。
ある女性は、素足に草履で足を踏みしめて凛々しく歩く雲水に男のニオイを感じたと言う。

別の女性が男とヨリを戻した話をしてくれた。
『分かれて二年も経った頃、ある席で偶然、元彼と再会した。後日食事をした。その時付き合っていた当時と同じニオイがした。その懐かしいニオイにトキメキが一瞬に蘇った』。再び付き合い始めたと言う。
その場で一緒に聞いていた他の女性がその逆の事を言い出した。
その女性も別れた彼氏と久し振りに食事をした。付き合っていた当時と同じニオイを嗅いだ途端に『この人、何にも変わっていない。別れて良かった』と思ったと言う。

匂いを判断する中枢神経は記憶中枢の隣にあるらしい。匂いで記憶が再現するのは当然なのだ。
男は事実の記憶は得意だが、女のように匂いとか情緒の記憶は不得意だ。それに臭覚の性能は女のほうがはるかに良い。とても男は女に太刀打ち出来ない。

思い出しても子供の頃。父親の側に行くと、タバコの匂い、酒の匂いに混じり合って父親のニオイがした。それは大人のニオイだった。大人になればこんなニオイになるのだと遠い未来にワクワクすると同時に不安にもなったものだ。
子供の頃に感じた父親のニオイは、今は加齢臭と呼ばれる。
洗濯機ではオヤジの洗濯物を別にする、箸で摘まんで落とすというテレビコマーシャルを見てから久しい。

家族のため一日汗して働き、やれやれと我が家に帰り『ただいま』と言うなり、擦れ違いざまに出掛ける娘から『お帰り』もなく、『オヤジ、チョウー臭い!』と言われたショックを、同席していた父親が嘆く。ついこの間まで一緒に風呂に入り『大きくなったらパパのお嫁さんになる』と無邪気に言っていただけに、娘が一瞬にして他人になってしまったと感じるのは無理もない。

加齢臭は人生の勲章、年齢を重ねれば自然に溢れ出てくる男のフェロモンと大いに威張って良い。


病気自慢

2012年10月04日 | ちょっと一言

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                        (建長寺/鎌倉)

台風一過の漁港の前。北風が当たらない陽だまり。オバちゃん達が三人。沖には白波が立っている。今日の漁は出来ない。
台風が来ると、漁業関係者は4~5日は漁が出来ない、仕事にならない。予定は立て難いが、サラリーマンの連休みたいなものだ。

たまたま、その場所で地元の知人と待ち合わせた。オバちゃん達の会話が聞くとはなしに耳に入ってくる。
『膝の具合は?』、『腰の調子は?』、『頭痛は?』等とお互いに気遣っている。やがて自分が罹っている医者自慢や薬自慢が始まった。更には病気自慢みたいに聞こえてくる。

病気自慢と言えば、先日大学のクラス会に出たときの事。
物故者への黙祷の後、先ず近況を2~3分づつ話してくださいと幹事がリードする。

『実は私、昨年暮れ大腸癌に罹り大変な思いをした』と最初の人が近況を話したら、続く皆が『実は私も---』と病気に関わる話題ばかりになってしまった。まるで皆が病気自慢をしているようだ。 
でも解る。
現役を退き、今やお互いに何の損得もない人間関係の中で、ただ懐かしさと20歳頃に戻った感覚で、つい話し易い相手にお喋りをしているだけかも知れない。又人に話しながら、自分でも気が付かないうちに、改めて自分に『養生するぞ』と新たな決意をしているのかもれない。

ただ閉口するのは、病気に罹った場合のその心構えや家族に対する感謝の気持ちの表し方等を、まるで自分だけが特別の辛い経験をして全知識を得たかのように、したり顔で話し続ける輩だ。

加齢と共に起こる身体の変化には、受け入れざるを得ないモノと受け入れたくないモノとがある。モノによっては少しの工夫や心掛けで変化する時計の針を遅らせる事は可能だ。何に価値観を持つかで生き方も決まる。

老いを見詰めるということは、考えようによっては、残り少なくなった時間を見詰めるという事だ。