海側生活

「今さら」ではなく「今から」

稲妻

2018年09月08日 | 思い出した

                    (江の島を望む)
久し振りに稲妻を見た。

午後三時過ぎなのに空には黒い雲が急に辺りを覆い日が暮れたようになった。突然雨が降り始めた。パチッパチッとガラス窓を叩きつけている。滅多に無い強い雨足である。つい先ほどまで見えていた江の島も雨の中に隠れてしまった。間もなく雷の音が聞こえてきた。それがどんどん近づいて来る。こんな大きな雷鳴も久し振りに聞く。江の島方向の黒い雲が一瞬白くなり、稲妻が走った。白く光る線が天上から伸びて来て、途中で右に折れ、すぐに又下降していく。2~3秒後、その方角からバリバリッと強い衝撃音が響いてきた。後で聞いたところでは、七里ヶ浜の小さなビルに雷が落ちたという。やがて雨は小降りになり、黒い雲も去り、夕方前には上がった。

昔の夕立が戻ってきたような気がした。稲妻をちゃんと見たのも数十年ぶりだった。
少年の頃、教室の窓から大雨の中で稲妻が白く光って走るのを見た。
その瞬間は物理の授業中だった。先生は小太りで、ボサボサの長い頭髪に隠れるような黒縁の大きな眼鏡を掛け、いつも俯き加減に自分の机の上の本だけを見て、ボソボソと口ごもる様に話し、よく聞き取れなかった。授業の途中からは自然に居眠りの時間になったのは自分だけではなかった。
そんな時、皆が飛び上がるように俯せていた机から顔を上げ、先生を見て、それから窓の外を見たのは自然の成行きだった。木造教室の窓ガラスはガタ、ガチャと響き放っしだ。雷の轟音と共に矢継ぎ早に稲妻が右に左に走り、時々バリバリッドーンと、学校から近い所に雷が複数落ちている音がする。凄まじい轟音に慄き、両手で耳を塞ぎ机にもたれて座り込んでいる者も多くいた。

猛暑で家に籠る日が少なくなかったこの夏は、クーラーの効いた部屋で少年の頃を懐かしんだ。こんな夏は初めて経験した。

今は、江の島を覆い被さるように低い黒い雲が漂っている。その雲の上の空は青く遠く、そして高く見える。
秋が忍び寄ってきた。

若き日と同じ自分

2017年12月28日 | 思い出した

(海蔵寺/鎌倉)

ここ数年は年を追うごとに“身辺整理”の意気込みで、日常生活に必要でないと思うモノは種類を選ばず捨ててきた。

掃除のついでに、ふと、日頃はほとんど開けないクロークの段ボールを開けてみた。
段ボールには本を縦にして二段に詰め込んでいる。その上にポンと横にして置かれたままの本を手に取った。元は白かったであろう表紙も黄色く変色してカビ臭い、いかにも古い本は高校生時代に読み耽り、影響を受けたヘルマン・ヘッセの詩集だ。これまで三十箱以上の本を処分してきたのに、どうしてこの詩集を手元に残したのか。そろりと一ページづつ捲ってみた。
本の空白部分には若かった当時の感想メモや赤字の傍線もそのまま残っている。あの頃のムキになって、「自分に何ができるのか?」、「何をしたら良いのか?」 と問い続けた若い自分に再会して、人間ってあまり変わらないと感じる。しかし「それは、あなたは成長していないのだ」と言われるかもしれない。自分の生きる意味や、更にそれが社会と繋がれるのかが、自分の迷いの問いであった。

この頃、歳を重ねた良さをしみじみと思う。
まるで短編小説のような人生の片々が記憶にあって、そのどれもがいぶし銀のように輝いている。
人との出会いでも、若い時には自分にとって良い人か悪い人か、または好きか嫌いかであった。しかし今ではどんなに変わった人でも面白い、会えて良かったと思う。退屈な人は一つのグループだけで「有名人に近づきたがる人」だけである。他の人はどんな好みや癖でも楽しく思える。
時間の持つ味わいも分かるようになり、電車の待ち時間も、待ち人が遅れて来ようとも楽しくなりかけている。困ったことだ。

今、我が年齢を振り返ると信じられない気がする。いつの間にか歳を重ねた。老いたとは言いたくない。ずいぶん遠くまで来てしまった。

そして若い日と同じ問いかけが心の底にあることを再確認する日々だ。

健やかで明るい新年をお迎えください

月見草

2016年08月08日 | 思い出した

(光明寺/鎌倉)
月見草を一度も目にしたことがない。

月見草と言えば「富士には月見草が良く似合う」といった、太宰治の言葉を思い出す。
読み返すと、太宰は『富岳百景』の中で、「あんな俗な山、見たくもない」と富士山に反発し、そして「三七七八米の富士の山と立派に相対峙し、みじんも揺るがず、何というのか金剛力草とでも言いたいぐらい、けなげにすっと立っていたあの月見草はよかった」と書き、その後例の句を続けている。因習や伝統に反発した太宰らしい言葉だ。

月見草は白い花が夕方開いて翌朝には萎むと言う。だから月見草と言う名がある。
この儚い花を一度は目にしたくなった。
鎌倉の寺社には花の寺として名を馳せている寺が3寺ある。昨年から幾度となくそれらに足を運んでみたがどこの境内でも目にすることが出来なかった。誰に尋ねても花の名は皆が知っている。しかし、それがどこで咲くかは誰も知らない。

目に出来ない訳がやっと分かった。この花はメキシコ原産で江戸後期に日本に入ってきたが、弱い花で野生化しなかったらしい。だから現在見掛ることは無いと言う。現在一般的に月見草と呼ばれている花は待宵草だと言う。

待宵草と言えば竹下夢二の「待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな」を思い浮かべるが、植物学的名は待宵草。夢二は名前を間違ったのか、それともこの言葉を創作したのか。花は黄色だが夕刻に開き,翌朝しぼんで紅色になる。色の違いを無視すれば、確かに月見草に似ている。

翌朝には萎んでしまうこの花の儚さゆえか、『宵待草』や『月見草の歌』も、その後も多くの人に歌い継がれ、また多くの歌人等に詠まれ、人の心の奥深くにヒッソリと潜んでいる。

トンボが飛び交っている。
あどけない少年期に、何かの拍子に刷り込まれ、気持ちがザワザワするような記憶が、胸の奥深い引き出しから、フッと思いがけず顔を覗かせた。


奥さんからの手紙

2016年01月24日 | 思い出した

                     (海蔵寺/鎌倉)
不意打ちを食らった。

やや遅れて配達された年賀状の中に旧友が亡くなった事を報せる「寒中お見舞い」が二通あった。二通とも差出人は奥さんの名前だ。

Nさんとは郷里の高校時代に同じバスケット部のフォワードとしてコートを走り回った。特にNさんとは阿吽の呼吸でパス回しが出来た。試合では部員は少なくチームは弱かったし、何も特筆すべきものはない。ただ奥手だった二人は好きな女の子の話も尽きることは無かった。卒業後の進路や将来の夢などを夜通し語り合う日もあった。

Aさんとは大学で同じクラスになったのが縁で、長崎弁しか話せない上京したばかりの自分に東京弁との違いを面白く教えたり、 関東一円の観光地を案内したりしてくれた。中でも横浜の自宅に度々夕食に招いてくれ、常に腹を空かせていた自分には堪らなく嬉しかった。家族の皆さんの温かさもホームシックを和らげてくれた。家族の皆が使っていた語尾に「―――ジャン」って言う横浜独特の言い方が今でも自分にも受け継がれている。横浜ジルバを教えてくれたのも彼だった。

埋めようのない空白がココロの中に漂い、やり場のない寂しさだけが残った。

八年前の病気の発見時にその刻の覚悟は出来ている。しかし思いの他、遠くまで来てしまった。今、未知の世界に居る感覚だけがいつも想いの中にある。

死はどんなに覚悟をしていても不意打ちにやって来る。それも背後からの---。背後からいきなり来る死に対して、誰が万全の備えなどできるだろうか。

十三夜

2015年10月25日 | 思い出した

                 (円応寺/鎌倉)
家の裏山で採れた栗を送ります。

独立した時、自分も参加したいと前職場を飛び出し、新たな仲間になってくれた、かっての部下から思いがけず宅配便が届いた。同封された相変わらず短い手紙には、年金を貰うようになりました。また、実家に新たに田舎暮らしが出来る家が完成しました。遊びに来てください、未来を語り合いたいですとも書いてある。
コロコロと大きく茶褐色に光を放っている栗が箱一杯に詰まっている。

栗と言えば栗名月とも言う十三夜・旧暦の9月13日は今夜だ。
亡き母から幼い頃に聞いた覚えがある。中秋の名月を観たら、後の月と呼ばれる十三夜も観るの。どちらか一方のお月見しかしないことを「片見月」と呼び、縁起が悪いと言われているのよ。そして秋の収穫に感謝をするのよと。
当時は母が言っている意味が分からなかった。常にお腹を空かせていたし、美味そうな栗をススキなどと一緒にお供えしなくて、すぐにでも食べたいと強く願った。そして考え実行した。一度寝たふりして、十三夜が天空に差し掛かった夜半に起き出し、皆が寝静まっているのを確かめ縁側に足を運び、お供えしてある栗を一個、ガブッと口に入れた。それは何と生の栗だった。
あの瞬間を思い出すだけで今でも口中に例えようのないあの独特の渋さがジガッーと広がって来る。

彼が好きだったバーボンをぶら提げて岐阜・関を訪ねてみたい。バーボンに焼き栗などは合うかもしれない。
母の話を懐かしく思い出しながら黄色の月を眺めている。
月の光は全ての色を殺してしまっている。

天も地もどことなくシーンと静まり返って息を呑んでいるようだ。秋だ、まさに秋の盛りだ。

日本も広い

2015年09月22日 | 思い出した

                  (明月院/鎌倉)
「真っ黒い汁を見てみたい」

博多に住む知人が遊びに来た。「何か食べたい物は?」と聞いた時の答えだ。
真っ黒だと聞いている東京の蕎麦の汁を見てみたいし、飲んでみたいというのだ。

西から東京に出てきた人なら皆が一様に言う事だが、初めて東京の蕎麦屋に入りウドンを注文し、そのウドンを目の前にした時の驚きは、長い間忘れられないものだ

東京で生活を始めて間もない大学一年生の時、友人三人と蕎麦屋に入った。東京と横浜出身の二人は蕎麦を注文したが、自分は好物の天ぷらウドンを食べたいと思った。親からの仕送りとアルバイトで生計を立てている身、あの頃は何を食べたいかよりも、先ず値段を見て注文する習慣が身についていた。天ぷらウドンは各種ウドンの中で安い方ではない。しかしその日は、どうしても天ぷらウドンを食べたかった。なけなしの小遣いと値段とを考え合わせ迷った末、勇気を奮って「天ぷらウドン!」と注文したものだ。
天ぷらウドンを待つ間は、友人たちとの会話も上の空で、自分はしきりに故郷のあの天ぷらウドンを思い浮かべていた。

友人達の蕎麦よりも先に、先ず自分の前に丼が置かれた。丼を覗き込んで一瞬「---」息を呑んだ。「これが天ぷらウドン?」
真黒な汁に太過ぎるウドン玉、上に乗っているのは刻みネギと小麦粉の塊の中に野菜の切れ端みたいな何かが覗いている。故郷では薩摩揚げを天プラと呼ぶ。
一口、汁を吸って又驚いた。何だか甘辛い味がするのだ。白いウドン玉が汁に塗れて黒っぽく見えていた。箸で掴み上げると汁が流れ落ち、やや白色に近づいた。

全部が違っていた、ウドン玉・ネギ・天ぷら・味と汁の色と泣き出したくなりそうだった。

始めたばかりの東京での学生生活に夢中になっていた自分は、この天ぷらウドンを食べた時初めて故郷を懐かしく思い出した。

その後、友人達と湘南の海に行った時、この時のウドンを思い出した。
湘南の砂浜は砂が真っ黒だった、あの時の天ぷらウドンの汁のように。白砂しか見たことのなかった自分には恐ろしい汚染された何かを目にした思いがした。砂浜に腰を下ろしたらズボンに砂の色が移りそうで、なかなか座る勇気がなかった。友人達は砂浜に腰を下ろし談笑しているのに。

博多の知人に食べた感想を聞くと、慎重に言葉を選びながら「ウ~ン、日本もなかなか広いね」と感想にならない返事だった。


思い出の多い分

2015年04月07日 | 思い出した

   竣工直前の新宿東宝ビル
“コマ劇場”が、装いを新たに間もなくオープンする。

30階建、高さ130メートルの新宿東宝ビルとして。
1階と2階に飲食店、3階から6階に12スクリーンで2500席のシネマコンプレックス、9階から31階に1030室のホテルと言う概要らしい。
ゴジラの頭部分のオブジェを8階テラス部分に設置し、街のシンボルにするらしい。

上京したての貧乏学生だった頃、収入面で他よりも良かったこの街のトリスバーでアルバイトをしていた。
当時、歌舞伎町は、「東洋一の歓楽街」と言われていたが、現在の様相はさらに変容し、3,000軒を数える風俗営業店が密集し、「欲望の迷宮都市」「外国人労働者の新租界」等とも評されている。 “コマ劇場“は街の中心に在り、ニュージカル公演や演歌の殿堂として50年間、街のランドマークであり続けた。

その頃は、ホームシックにかかっていたのか何しろ寂しかった。それよりも、いつもお腹が空いていた。
”コマ劇場“の公演の演目の看板--自分のアパートの部屋より広くて大きくて、夜でも昼間と見間違えるほどの煌々と灯された看板を横目で眺め上げながら、横を通り抜けた奥の路地裏に小さな狭い定食屋があった。ホカホカの白い湯気が立つご飯と味噌汁の夕食の味は今でも忘れることは無い。一日の内で一番安らぐ時間だった。公演などを見たことは一度も無い、下宿代が一畳千円の貧乏学生には無縁だった。周囲の働いている者は皆が貧乏だった。

店には様々な人達がいた。演劇を志し、上京して3年目と言う色黒で小柄な青年、タップダンスが得意だと言っていた。夢か恋かと問われた私 恋を捨てました、夢か恋かと問われた私 夢を取りました--まるで演歌を地で行くような歌手希望と言う色白の女性もいた。郷里の幼い弟妹達に仕送りしているんだ、目的は今の稼ぎを5倍にする事と大きな眼をグルグルと回しながら夢を語る、いつも朗らかな通称オジさんも懐かしい。
学生たちも通うハイボール50円のトリスバーでカクテルを作る男の中には、バ-テンダーなど言う職業の粋をはるかに超えて、用心棒・人生相談屋・夜の神父・又どんな人物をも演じる役者などをこなす凄玉が多かった。皆が歯を食い縛り、目的を持っていた。

やがて気が付いた。東京人は、この街にはいない、皆が地方出身者だと。
また孤独でない生き物など居ない。人間は誰かの喜怒哀楽を聞きながら成長をするものだと。

変化するとは命あるものだけではない、作ったもの全てが変化する。
また経験とは何を指すのだろう、と思うことがある。その時重大だと考えたことも後で振り返ってみれば陳腐な出来事だったり、何気なく過ぎたことが一生の曲がり角であったと思い知る場合もある。

きっと今、思い出の多さだけ豊かな人生を歩んでいるはずだ。 

魔法使い

2014年07月02日 | 思い出した

                                        (蛍ブクロ/東慶寺)

 暗さも怖かった。

 畑に近づくと周りには灯りが何にもない。叔父さんは畦道をズンズンと前に進む。暗さよりも怖い蛇が、今にも足に噛み付いて来るような気がして自分の心臓の音が体中に響いている。叔父さんに手を強く握って欲しい。恐怖心で言葉も出ない。どうして暗くなって畑に行ったのか覚えていない。多分、夕食の材料を畑に採りに行ったのだろう。

 やはり梅雨時だった。小雨もショボショボと降っていた日の幼い時の記憶だ。

 突然立ち止まった叔父さんは、雑草が生い茂る藪の中に足を踏み入れ、何やら長い棒のような草を一本手折ってきた。草の先には袋が三つ付いている。それを、怖さで言葉も無い自分に持たせると、両手を空に高々と上げた。見上げると蛍が無数に二人の周りで飛んでいた。初めて気が付いた。灯りは星の瞬きよりも大きい。やがて叔父さんの両手には一匹、二匹、三匹と留まり始めた。叔父さんは手に留まった蛍をソッと掴み、草の先の袋の中にユックリと入れた。

「提灯だ、これで明るくなるぞ!」周囲が途端にパッと明るくなった。怖さもどこかに飛んで行ってしまったことは言うまでもない。

 オジサンは魔法使いだと思った。

 東慶寺の境内には今、蛍ブクロが伸ばした花茎の節ごとに白や淡い紅紫色の釣り鐘形の花が数輪ずつ俯いて咲いている。

 

 

 


忘れないで

2014年05月08日 | 思い出した

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                                        (安国論寺/鎌倉にて)

久し振りに見た、見たというよりこの花が咲いているのに気が付いた。
覚園寺(鎌倉)に向かう道すがら、細い川沿いに咲き誇っている藤の木の陰に隠れるように清楚な姿を覗かせていた。

薄青(紫)色の1cmもない小さい5弁の花を咲かせ、花冠の喉に黄色と白色の目を持っている。「忘れな草」だ。
かなり古の多感だった頃、辛かった思い出と共にこの花の名前と由来を知った。英名の「forget me not」(私を忘れないで)の翻訳だ。上手い和訳だ。
中世ドイツの悲恋伝説に登場する主人公の言葉に因むと言う。騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降り、手折った瞬間、誤って川の流れに飲まれてしまう。ルドルフは必死に泳ぐ。ベルタは流されるルドルフを追って川岸を走る。しかし流れが速すぎる。ルドルフは最後の力を尽くして摘んだ花を岸に投げながら、?Vergiss-mein-nicht!“(僕を忘れないで)という言葉を残して流れに飲み込まれてしまう。残されたベルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名にした。
その後、失った恋人のことを生涯想い続けて純潔を守りぬいたベルタを讃えて「真実の愛」という花言葉も生まれたと言う。

「忘れな草」には他にも伝説がある。
天地創造の時、神はあらゆる動植物に名前を与えられた。だがこの花は小さ過ぎて、その時、神の眼に止まらなかった。そこでこの花は『神様、私を忘れないで!』と叫んだ。それが名前になったと言うのだ。

そう言えば最近、自覚している事で、固有名詞が咄嗟には口から出てこない時がある。「あれ」とか「それ」って言う事が多くなった。またトイレや洗面所などの明かりを消し忘れる事も増えた。
気が付けば、この時も古を回想するのに我を忘れて、この清楚な「忘れな草」を撮るのも忘れてしまった。

『忘れないで』の言葉はヒトに言うより自分に言い聞かせる言葉かもしれない


ウマさん

2013年12月29日 | 思い出した

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             (報国寺境内にて/鎌倉)

住所録を整理しながら、幼馴染みの友達を思い浮かべようとした。

あの「エロ山」や「ブタゴリラ」は、今どうしているのだろう。歳を重ねた分だけ、自分と同じくトシヨリになっているはずだ。しかし歳を重ねた「エロ山」や「ブタゴリラ」の顔が想像できない。思い浮かぶのは、ドロンコになって遊んでいた時の喜怒哀楽をむき出した当時の表情だけだ。

今、遊んでいる時でさえ、あだ名で呼び合う子供がいない。冬休みに入り、ボール遊びをしている近所の小学生達の会話に、苗字が池田なら「イケちゃん」、名前がカオリなら「カオリン」と言うあだ名はあっても、「エロ山」や「ブタゴリラ」など性格や容姿から付けられたあだ名は、ほとんど聞かれない。不思議に感じ、子供たちに聞くと『友達を「さん」付け、「君」付けで呼ばないと先生に怒られる』との事。
確かに、最近の小学校では友達を傷付けない「フワフワ言葉(優しい言葉)」を指導しているとも聞く。

自分のあだ名は「ウマさん」だった。きっと幼い頃より顔が長かったからだろう。誰が名付けたのか知る由もないが、いつの間にかその呼び方が通り名だった。友達をあだ名で呼び合うことで、友達との距離感がグッと近くなることが確かにあった。それに大人から見れば、イジメと思える事柄でも、子供同士の世界では、案外何でもないことも多い。

名前は忘れても、あだ名だけは覚えている友達が沢山いる。「オッサン」、「ザリガニ」、「ヒメ」、「セニュリータ」----。

新年の干支は午だ。自分は午年に生また「ウマさん」だ。

来る新年も「お・ち・あ・い・法則」で我が儘に迎えたい。

明るい新年をお迎え下さい。