海側生活

「今さら」ではなく「今から」

いずれがアヤメか杜若

2016年05月28日 | 季節は巡る

(東慶寺/鎌倉)
山の緑も随分深くなってきた。
毎年、この季節になると細やかな迷いが出ていた。

5月の行事は幼い頃に親から教えられ、又経験をさせられ知っていた。
5日の端午の節句では、母が五月人形を飾り、父が庭先に鯉のぼりを立てた。そして父は居間の柱に立たせ、身長を計り鉛筆で横に線を引いていた。また爽やかな香りを放つ菖蒲が魔除けになると「菖蒲湯」に入った。また、それ以上に楽しみだったのが粽(ちまき)や柏餅を、この日だけは食べられることだった。父は菖蒲の根を使った「菖蒲酒」を楽しんでいた記憶も鮮明だ。
ショウブ科に分類される菖蒲の花は蒲の穂のような地味な姿をしている。

しかし食べ物に結び付けて花の名前や特徴を覚えてしまったためなのか、アヤメ科の花菖蒲やアヤメや杜若も、花や葉の形が似ているせいか名前が混同してしまう。
さらに、アヤメを漢字にすると「菖蒲」となり、「花菖蒲」を「ショウブ」や「アヤメ」と呼ぶことも多いため、ややこしさに拍車がかかり見分けるのに悩んでしまっていた。成人してからも長い間『いずれがアヤメか杜若』と迷っていた。

今ならハッキリと分かる。
花による見分け方だ。アヤメは外側の花びらの付け根に黄色と紫の網模様があり、黄色い筋があるのが花菖蒲、白い筋があるのが杜若。また乾いた土地に育つのはアヤメ。水中や湿った土地で育つのは杜若と花菖蒲。

花菖蒲はこれから開花する
早朝や雨の日に楚々と濡れた気品溢れる立ち姿が美しい。また夕暮れ時に目と呼ばれる花びらの付け根の黄色い筋が、夕陽にともる灯火のようにポッと浮かび上がる光景は何とも神秘的でさえある。

花菖蒲が花を咲かせるのは僅か三日間のみだと言う。その儚い美しさもまた、自分の心を捉えているのかもしれない

知っている

2016年05月13日 | ちょっと一言

           (安国論寺/鎌倉にて)
埼玉県で一人の少女が、22歳の夫に殺された。

我々は少女の最後を知っている。夫に主導された少年グループが。墓苑の駐車場でハンマーと石材を使い、少女の頭を順番に殴り遺体に火を付けたのだ。万引きや傷害を警察に密告されると恐れての犯行だったらしい。夫はカード詐欺により執行猶予中で、その若さで結婚は四度目だった。
これだけではない。我々は、どんな風に少女が高校を中退したかを知っている。友人にどう思われていたかも、育った家庭の環境が複雑であったことも知っている。更に少女が働いていたスナックだって、行った事がないのに店主の顔さえ知っている。

少女の二つお顔を思い浮かべるのも簡単だ。学生だった頃の純朴な顔立ちと、働き始めて流行りのメークをした大人びた顔も知っている。明るい茶色の短髪と同じ色の細い眉、それでも少女はまだ16歳でしかなかったのだ。

この事件の当事者を知っていた訳ではないし、特別にこの事件に注目していた訳でもない自分が、犠牲者の事をこれほど知らなければならないのか。死者について集中豪雨のような報道をするのは何故なのか。何故、被害者は殺害された上に身上の全てを暴かれなければならないのか。
これは、特に残された身内にとって二次被害ではないのか。
事件が起きる度に自分は思う。この国には死者に人権は無いのかと。

被害者に関する報道はそろそろブレーキを掛ける必要がある。報道側も受け手側もどこに一線を引くべきか。他所事ではなく皆が考えなければならない。


和食って

2016年05月07日 | 感じるまま

(東慶寺/鎌倉)
日本ほど毎日の食事で様々な料理を食べている国は無いだろう。

中国に住んで居れば毎日が中華料理だし、イタリアに住めば毎日がイタリアンだ。
我々は、朝は味噌汁に納豆で、昼はパスタで、夕は酢豚なんて正に日常茶飯だ。
なんでも食べられる毎日は幸せなようで日本人らしさが失われているのかもしれない。今の日本人に食の定型なんてない。取り敢えず美味ければ良いのだ。
和食の定番の寿司、天ぷら、ウナギや蕎麦は江戸後期に完成したらしい。案外歴史は新しいメニューで当時は斬新で奇抜な料理だった。
このどれもが屋台から生まれたから、武士や上流階級の口には入らなかった。職人衆や小僧どんが、立ったまま小腹ふさぎのためにつまむ食べ物だった。婦女子もなかなか手を出し難かったし、「買い食い」をはしたないとする風習の上方でも広まらなかった。単身者の多い江戸でこそ流行ったとある。

ところが現代はそれらが和食を代表する料理となった。海外からのお客様には寿司や天ぷらを真っ先に薦めるのだから、時代も変われば変わるものだ。
鎌倉・逗子・葉山でも現在、話題となる和の名店は、洋の素材を巧みに生かしているのが評判になっている。バターや生クリームは当たり前でフォアグラ、キャビア、トリュフ、オリーブオイル、バルサミコ酢、豆板醤、ズッキーニ、ポルチーニとなんでも和食にしてしまっている。

和食って何だろう。
「だし」と言う人もいれば抽象的に「こころ」と言う人もいる。
醤油味だと和食らしい感じもするけど、醤油が普及したのも江戸中期以降でそんなに歴史がある調味料ではない。我々の先祖がずっと食べてきた伝統的な和食とは、塩辛いタクアンや梅干しなどの副食で、豆類や雑穀、たまに小魚と貝を並べた、ひたすらシンプルな食卓だった。

僅か100年余りで日本人の食が、ここまで変わり大丈夫なのだろうか。
生物の進化にはとてつもない長い時間がかかるのに。習俗はアッと言う間に変わり失われる。
美味しいだけでは多分ダメだ。

「飛魚だし」の懐かしくホッとする味噌汁が欲しい。