海側生活

「今さら」ではなく「今から」

小さな岬の雨

2016年10月30日 | 鎌倉散策

(和歌江島/鎌倉・逗子)
冷たい雨が強く降ったり小降りになったりと言う日に、鎌倉/材木座海岸の一番端の小さな岬に出掛けた。

ここは9月下旬の大雨で、鎌倉/材木座海岸と逗子/小坪を結ぶトンネル入口の山が崩れ、バスも通っていたが今は修復のため人も通れない。
片方は海側特有の切り立った山、前は海。晴れた日は、ここから江の島や富士山を望む夕陽が美しい。

雨と波に煙る和賀江島は海中から頭だけ出し沈んでいた。干潮時は浜から島まで歩いて渡れる。又、満潮時にはほぼ全体が海面下に隠れてしまう。
島と言っても人工の島だ。貞永元年(1232年)とあるから780年余り前だ。執権・北条泰時の時代に往阿上人が築港した。付近の前浜では水深が浅く、又南風を避ける港が必要だったらしい。そこで海中に桟橋を造り船着き場とし、各地からの物資を運んだとの記録がある。日本で最古の港遺跡らしい。

今は、僅かの巨石と3~40cmぐらいの石積みが漠然と残っているだけで、知らない者には何のことはない代物だが。知っている者には重要な地なのである。これまでには埋め立て工事を始めたり、石積を一部壊されそうになった。知っている人達は反対して和賀江島の一部を守ったと聞いた。そして史跡に指定された。

現代は何でも埋め立てて 土地を新たに作り出す傾向があるが、拡げれば良いと言うものではない。
由緒あるものは、昔、役に立ったモノとして残しておきたいのが人情と言うものである。
人間もそうだ。
樹木もそうだ。
石もそうだ

皆、生きた証をどこかに留めている。それが有名であろうと、無名であろうと、むやみに破壊し、山を崩し、海を埋める事のみに使われて、影も形も無くなってしまうのは、栄枯盛衰は世の習いとしても、寝覚めが悪い。

和賀江島が海中に、その一部の石積みでも残して、昔の栄の面影を残しているのは心が落ち着く。

雨の海辺の季節に相応しくない冷たい風に吹きさらされながら、暫く佇んだ。
海に降る雨も情緒があった。

野次馬の一言

2016年10月17日 | 感じるまま

     (妙法寺/鎌倉)
政治家も大変だ。
アメリカ大統領選挙の報道を聞きながら思わず考えた。

人の眼があり、重箱の隅をつつく能力に長けた人が多く、又それらは一瞬にして世界中に拡散する現代では、ちょっとした失敗なども頭を掻きながら「ゴメン」では済まない社会である。
勿論日本でも、政治家だけではない。経営者や教育者、更にスポーツマンや芸能人も同じである。少しでも有名になり、目立つ立場に立った人は、たちまち過去から現在まで公私の区別なく解体される。それこそ履歴の失点になりそうな事柄は、癌細胞を見つけるCTやMRIのように機能させて発見し、「アンタの失敗」として社会に告知し糾弾される。

法を破るのは良いか悪いかと言うと、悪いに決まっている。しかし法にも軽重があり、裁きの場で死刑から説論まで差がつけられる。しかし社会的な告知と糾弾は死刑も説論も同じで、下手をすると抹殺されてしまっている。
だから今後、政治家を志したり、ヒーローやヒロインを夢見ている人は、これまでの過去を消すか、無菌状態で生きるしか方法がない。

自分以外の人には完璧を求め、すこしでも欠点や失敗が見つかると袋叩きにする社会って何だろう。
他人に対しては異常なまでの潔癖主義、暴力的なまでの完璧主義で裁いている。現代の我が国では失敗は引き算ではなく、マイナスの掛け算であるから、持ち点がどんなに多い人でも、たちまちマイナス点になってしまう。敗者復活不能のシステムが働いている。これが常識として罷り通ってしまうと、リーダーもヒーローやヒロインも誕生しなくなる。

つまり、自動車の免許取得後、一度もハンドルを持ったことが無い人が、無事故無違反で最優秀ドライバーとして表彰されるようなもので、何もしなかった人だけが褒められるような社会になってしまう。

だからと言って、この最優秀ドライバーの自動車に乗る気にはならない。

秋が足早で

2016年10月11日 | 海側生活

(ホトトギス/妙法寺)

富士山の初冠雪のニュースが流れたのは9/25だった。

グループでやって来た台風や相次ぐ大雨・強風情報に日々の行動予定を制限され、変更せざるを得ない日は6~7日もあった。
そう言えば、その頃には都心のホテルからクリスマスやお正月の案内が届いていた。クリスマス・ディナーショーは4.7万円/一人。また正月は100を超える日本の伝統文化や江戸情緒満点のイベントなどで、快適に楽しく過ごしてくださいとの誘いだ。

夏の延長戦のような暑い九月だった。

しかし今、見上げれば綿のような白い雲が、まるで薄いティッシュを指で引き千切ったように、所々が綻びて悠々と流れている。
ここ数日は、寺社の境内を散策しても樹の葉が強くもない風に吹かれてパラパラと、時折大粒の雨のように降ってくる。そして枯葉が参道をカサカサと走って行く。
金木犀も散り、その残り香だけが一面に漂っている。寺の関係者の話では、年末の大掃除に使う長い竹笹の注文も済ませたと言う。

境内には赤紫色のアザミが誰も寄せ付けないよとばかりに凛と佇み咲き、存在を主張している。また夏から晩秋まで長く咲く姿から“永遠にあなたのもの”との花言葉があるホトトギスが上向きにツンと咲き、まるで白い雲と会話を楽しんでいるかのようだ。またススキも花がずいぶん開き見た目にも白く風に揺らいでいる。十五夜の頃はまだ穂は固く茶色で真っ直ぐ立っていた。

足早に秋はやって来た。

十三夜も、もうすぐだ。
今年も青白い光がベランダ側の窓から差し込み、部屋全体をボーと明るく照らすに違いない。そして午前二時過ぎには遠く富士山の青白い冠雪が眺められるかもしれない。