(妙本寺/鎌倉)
炊きたてのご飯に生卵と言うのは美味しいものだ。
あれを美味しいと思うのは日本人だけだろう。しかもそれなりの高齢者に違いない。ヨーロッパ人はもとより、隣の韓国や中国の人達も、きっと不思議がるか、気味悪がる。まともな食べ物とは思わないだろう。
ナマのまま食べるというのが理解出来ないのだ。当然、刺身や酢の物などは、とてもすぐには食べられない。同じアジア人で顔付きが似ていても、食生活がまるっきり違う。彼等には魚は材料であって、それをブチ切りにしただけのものが、どうしてご馳走なのか、料理の手間を省いただけではないのか。
鎌倉では数少ない懐石料理の店で、最近も見かけた。顔付きは日本人と変わらないが、明らかに中国か韓国の人達だ。招かれた食膳に座り、にこやかに説明を聞いている。ヨーロッパ人と違い、箸を持つ手つきは堂に入っている。だが刺身をつまむ手は明らかにぎこちない。全身でたじろいでいる。
口に入れ、一点を見詰め、モグモグとさせ、目を瞑るようにして飲み込んだ。すぐさまに「ベリーグッド」と共通の英語で応じたが、可能ならば一口だけにしたいらしい雰囲気が、アリアリと観て取れる。
中国料理を味わうと解るが、料理に様々な手が加えられてある。加工の質と手続きとで料理を作っていく。この点では多分フランス料理なども同じだろう。これらの店が世界中にあるのは、オーソドックな料理法に基づくからだ。
日本料理は、その点変わっているのかもしれない。材料の良さ、ナマの鮮度を生かして、なるだけ手を加えない。実は目には見えないところで大いに手を加えているのだが、それはさり気なくウラに収め、表に出さない。
もしかしたら政治や外交の分野でも、ナマと加工の料理法に通じるところがあるのではないだろうか。同じ顔付き、同じ肌の色であっても、基本的な事で断絶にも等しい違いがある。日本人には自明の事が、相手には我慢ならないのかもしれない。さらに違いを確かめても、なお理解には遠いのだ。
ソチ・オリンピックの録画を見ながら、全く関係無い事が頭を過った。