海側生活

「今さら」ではなく「今から」

水と安全はタダ

2011年03月31日 | 感じるまま

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社会に出て間もない頃、一冊の本にハッと気付かされたことがある。著者はイザヤ・ベンダサンと名乗った『日本人とユダヤ人』だ。
その中に「日本人は、安全保障を無料だと思いこんでいる」と指摘があり、同じように「日本人は、昔から"水と安全はタダ"と思って暮らしてきました」とあった事を記憶している。

いつから日本の"水と安全"はタダでなくなったのか。
日本の国土は、地理的にも川が多く湧き水も多く、現在でも川の水や湧き水をそのまま飲める所はまだ方々に存在する。
だから河川の水を浄水施設で飲用に浄水するコストも他国に比べて比較的安く済み、レストランなどの飲食店でも、水やお茶は基本的にタダで提供されている。

東北大地震で「日本ガンバレ!」「東北ガンバレ!」と支援や復興の手が差し伸べられ、被災者には想像を絶する困難が今なお続いているが、断水世帯も30万戸近いと言う。それに追い討ちを掛ける原発事故に依る水道水の放射能汚染が発覚した。

店頭に水が無い。「一人一本だけ」と張り紙がしてある。この状態は首都圏だけかと思っていたら、聞くと全国規模で似たような状況のようらしい。国内に300社あるミネラルウオーターのメーカーも増産体制に入っていると聞くが、計画停電で思うように増産できない事や、ペットボトル容器など資材の不足、資材工場も被災しているという。
輸入も始まった。流通過程で値上げも顕著だ。ネットで法外な価額でオークションに出している輩も現れた。

身体の消化器にメスを入れた自分は手術以降、ミネラルウオーターを飲用していたが、近郊では購入する事が出来ず、九州に住む友人や従弟から送って貰った。

一部のミネラルウオーターは、値上がりしたガソリンよりも、ビールよりも高価になってしまった

「水と安全はタダ」も遠い昔になってしまった。


何かを一つ我慢して

2011年03月24日 | 感じるまま

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沈丁花がどこからともなく香っていた事も、たどたどしく鶯が鳴いている事も、蕗の薹や土筆が出ている事も、桜の蕾が随分膨らんだ事も知っている。それらを何となく自分の鼻が、耳が、眼が捉え、春が来ていたのを分かってはいる。
いつもなら自分の心は、今年も春を迎えられた素直な喜びに躍っているはずなのに、気持ちが晴れない。
震災以来これまで日常行ってきた事が普通に出来ない。何となく気力が失せたままだ。一歩足が前に出ない、そんな日々が続く。

震災報道に接する度に、あまりもの現実に言葉もない。それでもテレビの報道で自分が目にしているのは、被害のほんの一部なのだろう。

原発の影響は注意をしたい。
震災地に近いところで栽培された野菜類や原乳が出荷停止・採取制限措置を採られているが、これらは農作物だけの、しかも一過性の問題ではない。土壌や水や大気、さらに海にも影響を及ぼし、今後10年単位で解決されていくべき終わりの無い無限の問題でもある。被災地の方々の生活は、今後、劇的に変わらざるを得ないのだろう。

自分は今でも三ヶ月に一度、X線CT(コンピュ-タ断層撮影)をしている。一回のCTで6.9ミリシーベルトを被爆している計算だ。被災者の方々の不安は分かりすぎるほど理解できる。

諸外国からも「日本、頑張れ!」と声が届いている。これは「日本、しっかりしろ!」の意味でもある。

この震災は極めて厳しい試練だが、これを乗り越えようとする個々の力によって、日本の未来が有るのだと思う。自分の父母達の世代が先の敗戦のどん底の中から復興させたように。
またあらゆるものを新たな尺度に切り替えながら、復興させるまたとないチャンスでもある。

自分も何時までも挫けてはいられない。
先ずこれまでと同じ生活を始めよう。ただ、文明との向き合い方を何かを一つは我慢して。

そして春に少しだけ触れてみたい。


答えの無い「なぜ」

2011年03月16日 | 感じるまま

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その時、地震発生時には自分は「鎌倉の歴史と伝承」の教室に座り講義を聴いていた。
今まで幾度と無く地震は体感しているが、身体に感じる揺れ方や時間から判断し、初めての事だったが自分は「外に出ましょう」と大きな声で言って建物の外に出た。

余震が続いている。停電した。交通信号も消えた。電車もバスも止まった。津波警報も出た。小町通りのオミヤゲ店のカウンターに置かれたラジオから絶え間なくニュースが流れている。ケイタイに地震情報が飛び込んできたのを知る。しかしケイタイ通話は通じない。メールはやや時間が掛かっているが通じた。

歩いて住まいまで帰ったが、途中浜で漁師に聞くと、50cmぐらい水位が上がったと言う。明るい内に夜の準備をした。電気が止まるとエレベーターも動かない、灯りが無い、エアコンが使えない、水も出ない、トイレの水も流せない、風呂も沸かせないと当然の事が改めて分かる。
被害状況が明らかになるにつれ、自分の多少の不便さの感覚はどこかに吹き飛んでしまった。

今でも40万人を超すと言う避難者に思いを馳せるとき、その心労はいかばかりかと落ち着かない、胸が痛くなる、他の事が手につかない。
この大事な時に、今生きている自分は何も手助けが出来ない。義援金を送る位の事しか出来ないのか。

地震列島国に住む日本人は皆ある程度は覚悟をして日常生活をしていると思うが、「なぜ」自分の町が、自分の家族がと想像を超えた事態に遭遇した時、頭をよぎるのは「なぜ」と言う言葉だろう。被災者の怒りや疑念は当然だが、答えの無い「なぜ」もあるのが辛い。 

しかし原子力発電の事故を除いて-?-。

今、自分には何が出来るのか、もう一度考えてみたい。


どこに向かうか

2011年03月08日 | 感じるまま

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「何をしないか」を生活信条にしようと決めてから一年も過ぎた。
しかし長い間「何をするか」と常に考えてきた生活から「何をしないか」に切り替えるのには様々なことがあった。

これまで習慣で行っていた事を止めたり、考えてきた事を止めたりする事は大変な勇気や決心が必要とする場合がある。特に相手がある場合は、付き合いが悪いと言われる程度ならまだ笑って済ませられるが、我侭だとか身勝手だとか言われると「本当にそうなのかも知れない」と一瞬ひるんでしまう時がある。そんな時自分は「何をしないか」の生き方に変えたと説明しても短時間では理解は得られないと思うと、些か気が滅入る事もある。

それでも趣味の歴史散策だけは欠かさない。季節の変わり目は街中と違い、人里を離れた山間にはシャッターチャンスも多い。

鎌倉には高い山が無く、低い山々が材木座海岸を包むように連なっている。 
山々は多くの谷を抱えている。ここでは人は谷を“やつ”と呼ぶ。源頼朝の父・義朝の邸は「亀ガ谷」にあったし、日蓮上人が『立正安国論』を書いたと言う安国論寺は「松葉ガ谷」、『十六夜日記』の阿仏尼が住んだ「月影ガ谷」、その他「扇ガ谷」、「獅子舞ガ谷」、「比企ガ谷」などと66箇所もある。
それらの谷の一つ「紅葉ガ谷」は、上り坂の道沿いに小川が流れ、時期によっては季節の小さな花々が咲いていたりする。小川の底の水草、水辺の苔など一つ一つが古く日本の風景だが、名の通り秋は紅葉が一段と映える。この谷の突き当たりに瑞泉寺がある。

本堂裏手にそれほど広くはないスペースに、一切の無駄を省き、岩と水だけで作られた禅の庭だと言うのがある。作庭は夢窓礎石と伝えられている。南北朝時代の禅宗様式の庭を代表するものらしい。

もう何度目だろう、ここに足を運ぶのは。季節が変わる度に来ている。
自分は庭の事は分からないが、鎌倉石(凝灰岩)の岩盤を削って池を配した簡素な庭園である。日本庭園によく見られる庭石や灯篭も無い。引き算の庭とも呼ばれている。

「何をしないか」と言う事は、従来、行ってきた事や考えてきた事を単に止めるだけではなく、それらに付帯していたであろう全てを意識して止めたり或いは捨てたりする必要がある。それらは自然に消えていくものではない。さらに場合によっては、それらを無理にでも削り取る事によって、生来の自分を改めて知る。そして今、「何をしなければならないか」が見えてくる。

庭を観ながら何となく気付かされたような気がする。
自分は来た道ばかりを気にしていたが、どこに向かうかが大切だ。


漁師誕生

2011年03月04日 | 浜の移ろい

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K君は笑顔を浮かべながら沖の漁場から港の浜に戻ってきた。どうやら豊漁だったらしい雰囲気を感じる。
奥さんが迎える。傍らには乳母車の中で赤ちゃんが眠っている。この二月に生まれたばかりの男の子だ。

彼はこの浜のベテラン漁師に二年前に弟子入りし、春夏秋冬それぞれの漁を手伝いながら必死になって網漁や覗突漁を教わり、身をもって覚えた。その間無給だった。そして今独り立ちした。
彼はそれまで渋谷・原宿で服飾の企画・デザインを十年以上も行っていた。ある時、何となく知人に同行してマリンスポーツ店に行った際、自分の感性にマッチするデザインのサーフボードが目に留まり思わず買ってしまった。それ以来、波を求めて方々に出掛けた。気に入ったのが逗子の波だった。
サーフィンをやるためになるべく海に近い所をと希望して引っ越してきた。気に入ったそのアパートは漁師町にあった。
暫くは原宿まで通勤していたが、その間に地元の女性と知り合い結婚した。そして彼は転職することを決意した。
独立の時、彼は仕事のために小さな船を調達した。船体の色も変えた、片側はグレイでもう片方は黒、さすが元ファッションデザイナー
だ。この港には30艘があるがこんな色合いの舟は見たことが無い。また自分の身なりもこざっぱりと黒と灰色に統一している。
舟の名前もそれぞれの父親の頭文字を一文字づつ貰って命名した。夫々の両親は漁業には全く関係ない人達だ。

現代は様々な働き方がある。社員、契約社員、派遣、パート、アルバイトなど、また農業分野ではボラバイトと呼ばれる働き方も有る。
サーフィン好きが高じて、湘南のサーフショップに勤めたり、或いは自分で飲食店等を開設した人は多いが、漁師に転職した人には会ったことがない。

先輩漁師達とは同じ海・地域で獲る魚や漁法も同じ、彼にとって互いに競争相手でも有る。
そして新米と言えど、漁をするにもまた販売面でも様々な組合の制約や、浜独自の慣習や決め事もある。それらと葛藤も続くだろう。

「まだ新米ですから一生懸命です」と屈託が無いが、あと二、三年もすれば「パパ」と息子が波打ち際まで駆け寄り、パパの沖からの帰りを出迎える光景を目にすることが出来る事だろう。その時まで、渋谷・原宿での全ての経験と人脈を、どんな形で自分の漁師としての業と結び付けていけるか。
彼がサーフィンのように、今後漁師として波に乗れるかどうかは、従来とは違った販路開拓次第だ。

“好きなことがしたい”という一生懸命な生き方に拍手をして激励したい。