海側生活

「今さら」ではなく「今から」

夜潮

2010年05月26日 | 魚釣り・魚

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今年も恒例の駿台会の新島釣行だ。
トライアスロン競技も開催されていた。競技の中のスイムが港内で行われたため出船時間が遅れた。
四時間の釣果は、鯛は53cm・3㎏弱はあったかと思われる太ったものを頭に、船中6人で30枚、他は外道のイサキやムツが少々だった。
                  

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自分は釣りの一日前に、隣の島なのにまだ足を運んだ事が無かった式根島に一泊した。
テングサが港の近くに所狭しと干してあった、既に4~5日は干されているのだろう、淡いピンク色をしている。
早朝の漁港では、20人ぐらいの男達が無言で身体を動かしている。目をやると、今が旬のタカベが大小を選別すべく台に乗せられている。隣の台には、獲れ始めた柔らかくて甘味があるだろう、アカイカが薄い小豆色の身体を光らせながら、大きな眼を開いている。

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面白い温泉があった。

鋭いV字状の谷間にあり、急な階段を下りていくと、地面を鉈(なた)で切り裂いたような地形から名づけられた地鉈温泉がある。

少しずつ高低差がある波打ち際の5ケ所の湯壷は干潮時には70度ぐらいの湯音度だと言う。しかし潮が満ちてくると、海水が入り一番低い湯壷から順に温度が下がっていくという。湯加減のよい湯壷に身を移しながら、大海原を眺めつつ、生きている実感を取り戻す。

島の人々は「夜潮」と言って、潮騒と風の音を聞き、月を見ながらと湯治を楽しみ疲れを癒すと言う。

湯壷を移りながら、自分に合った温度を求めて身体を移動させるのは、魚みたいだなと、一人苦笑いをした。

53cmの鯛は、マンションのまな板からは頭もシッポもはみ出していた。


一年十ヶ月の結婚生活

2010年05月20日 | 興味本位

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ペリー来航から7年後の安政7年 (1860年)、勝海舟は咸臨丸の艦長としてアメリカを往復した。その咸臨丸フェスティバルが浦賀で開かれた。その足で、ずっと気掛かりだった「おりょうさん」が眠る墓がある信楽寺(しんぎょうじ)を訪ねた。
「おりょうさん」は、幕末の風雲児・坂本龍馬の京都での「寺田屋騒動」の折、龍馬の危急を救った女性としか知らなかったし、その後どんな人生を送った人なのか興味もあった。

本堂には二人の等身大木造坐像が寄り添う様に安置してあった、「おりょうさん」が好きだったと言う月琴と共に。    
また墓地には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれたかなり大きな墓石があった。
墓石を見ているうちに、なんだか納得できない何かが頭を過ぎったため、その後資料を集め読んでみた。本人の手紙や日記などは一切残っていないと言う。

「龍(おりょう)」は京都の町医師の長女で弟二人、妹二人がいた。19歳の頃、父が他界し、一家を支えるため、他家に仲働きに出る。
その頃、龍馬と知り合い、その後龍馬の定宿の寺田屋の手伝いとして「お春」と言う名前で住み込む。
「寺田屋騒動」をキッカケに、西郷隆盛や小松帯刀の仲人で二人は結婚し、龍馬の手の怪我の療養を兼ね西郷隆盛等に同行して鹿児島への旅に行く。
霧島温泉などで療養し、高千穂の峰の天の逆鉾を引き抜いて遊んだり、この頃の数週間が「おりょうさん」にとって、生涯で子供時代を除けば、最大の安らぎの時だったに違いない。
この頃、龍馬が乙女姉さんに宛てた手紙に「まことに面白き女にて、平凡だけどピストルも撃つことも出来る女」と紹介している。
龍馬が京都・近江屋で暗殺された時、「おりょうさん」は鹿児島旅行の帰りそのまま下関・海援隊支店に居て難を逃れた。この時龍馬は三十三歳、「おりょうさん」は二十七歳。結婚生活はわずか一年十ヶ月だった。

長府で追悼式を行った際、「おりょうさん」は惜しげもなく黒髪をプッツリ切って龍馬の霊前に供えた、そして名を龍馬が名づけた「とも」に変えた。
未亡人となった「おりょうさん」は、夫・龍馬の実家の土佐の坂本家に移り住んだが長続きしなかった。
この頃、ある土佐藩士は、「おりょうさん」の事を『大変な美人だが、賢婦と言えるかどうかは疑わしい。善にも悪にもなるような女』と評している。

その後、京都・大阪・東京・横浜と明治初年まで流浪の生活が続き、波乱の連続だったらしい。その原因や生活状況については、いろいろの説があるが資料が全くない。
ただ、はっきりしていることは、戸籍簿が残っていて、その後再婚し「ツル」の名前で入籍している。
晩年は、生活は困窮し知人から米、味噌、醤油などを借りての日々もあったらしい。
そして明治三十九年一月十五日に死亡し横須賀で生涯を終えた、六十六歳だった。

「おりょうさん」の葬儀は、再婚者や知人・隣人の助力で営まれ、遺骨は当時の信楽寺住職の好意により、この地に葬られたとの事。
この知人は後に、「大酒飲みでやたらに威張りちらす、いやどうも、とんでもない鉄火婆さんだったよ」と語ったらしい。

信楽寺の墓には「坂本龍馬の妻龍子」としっかりと刻まれているが、「ツル」は無視されている。再婚相手の心情は複雑だったに違いないと思う。その後、再婚相手も同じ寺に葬られたが墓は別になっている。

もし龍馬が暗殺されていなかったら、「おりょうさん」はどんな人生を歩んだのだろう。
「おりょうさん」もまた風雲児だった。

毎年秋には、「おりょうさんまつり」として墓前祭と「おりょうさん」を偲び月琴(げっきん)の演奏会が開かれているそうだ。


女の鎌倉

2010年05月13日 | 鎌倉散策

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先日テレビでDV(配偶者間暴力)について深刻な話題が展開されていた。
いくら聞いていても他人には理解できないと思ったが、崖っぷちに立たされた本人には、どんな声の上げ方があるのだろうかとも考えた。

考えながら「縁切寺」を思い出していた。
妻の方から離縁を申し出る事など許されない封建時代に、ここに駆け込みさえすれば「離婚できる」と言うのだから多くの女性がこの尼寺に駆け込んだ歴史がある。

鎌倉・東慶寺は執権・北条時宗夫人の覚山尼が開設した臨済宗の古刹である。
開山時から寺格は高かったが、その後、二十世・天秀尼は豊臣秀頼の娘で、1615年大阪城落城によって父・秀頼は城と運命を共にし、彼女は捕らえられたが、秀頼の正室で徳川家康の孫娘にあたる千姫が養女にすることで助命され、家康の意向により7歳にして入寺した。
そして「権現様御声懸り」となって、東慶寺の特権は非常に強いものになった。例えば江戸城登城の際には、大名の行列も道を譲ったほどの格式だったと言う。
そして近世的な縁切寺法を確立し、女性を守り続けた。

慣れない旅で、足を引きずりながら、ようやく東慶寺の前までたどり着き、追っ手に捕まりそうになったら、また門限で門が閉まりそうになったら草履・下駄や櫛・簪でも身に付けた物を投げ込んで、それが門内に入ればセーフになったとの事。門番は大変だったろうと思うが、とにかく女性の味方をする。もちろん門前には男子禁制の一札が立っている。門内はいわば誰も手を出せない治外法権の世界だった。

「縁切寺」に駆け込んだら髪を剃って尼さんになるのではない。別に尼さんになるために駆け込んだわけではない。不法な夫との縁切りが目的だから。駆け込んだ後、亭主がすぐ離縁状(三行半)を出して呉れたら協議離婚となり、すぐ実家に帰ることが出来た。出して呉れなければ、「寺入証文」言わば現代の入社の際の誓約書みたいな証文を入れて、足掛け三年、二十四ヶ月間の年季奉公の「寺入り」が条件だった。
そして年季が明けたら「御寺法」によって強制的に離縁となった。

しかし離縁を求める二度目の駆け込みは許されなかった。離婚して再度の駆け込みは、女の方に何か悪癖があるのだろう、と言う解釈をされたらしい。
駆け込み女の年齢は、慶応二年の記録では、最低20歳、最高54歳、平均29歳。
駆け込んだ人数は江戸時代後半だけでも2000人は超えたと言う。

現在、東慶寺は尼寺の役目を終え、周囲を小高い山々に抱かれヒッソリと佇んでいる。
手入れの行き届いた境内は四季折々の花々が咲き乱れる。
今、花言葉に「抵抗」とか「決心」を持つシャガの花が境内の木陰に群生している。

現代の「駆込寺」は、何処にあるのだろう。


思った味が出せない

2010年05月10日 | 魚釣り・魚

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先日、有楽町駅の近くで日本料理店を営むS社長に誘われ千葉・勝浦に釣りに出かけた。
その折、早朝の勝浦漁港で大量の鰹が水揚げされ、それらを箱詰めにしている作業風景を見た。

鰹は南の海で生まれ、2年ほど過ごし、その後1月頃にフィリピン沖から黒潮に乗って日本沿岸を北上し始め、3月には九州や四国の高知沖に現れる。4月には駿河湾沖で鰯を食べて4kg前後まで太る。これを5月に相模湾沖でとったものが関東で言う初鰹だ。そして紅葉の頃、三陸沖から南下してくるのが戻り鰹。
この鰹を好きな人は、爽やかでさっぱりとした味わいの初鰹、こってりと濃厚な味わいの戻り鰹と一年で2種類の楽しみを味わえると聞く。
また、かって江戸っ子は「女房を質に入れても」との意気込みで、初鰹を食するのに大騒ぎをしていたらしい。
自分はそんなには好きではない。味がサッパリし過ぎて食する際には薬味に生姜、ニンニクやポン酢、マヨネーズなどをタップリと使うのも自分には向いていない。

吉田兼好は『徒然草』で鎌倉の「堅魚(かつお)」について記している。
『鎌倉あたりでは、極上として鰹をもてはやしているようだけど、土地の年寄りに言わせると、「あの魚は、私らが若かったころは、身分ある人が食べるようなものではなかった。頭なんか、下々の者ですら手を付けずに、切って捨ててしまっていた」との事だ。こんな物ですら、上流社会の人々の口の中に入ってしまう。世も末だ』と切り捨てている。

ただ鰹は鰹節にすると、それこそ極上の味を出してくれる。
鰹の肉を蒸して干し、カビ付けをして作る。小さな鰹では左右二枚のおろし身がそのまま二本の鰹節になり、これを亀節と言う。大型の鰹は背肉と腹肉に分けて二本ずつ、合計四本取れる。これを本節と言う。このうち背肉部分の雄節を鉋(かんな)に似た歯を持つ削り器で削り「削り節」とする。

海側生活を始めて以来、二週間に一つは新しい料理にトライしている自分にとって、「削り節」は出汁の素材として昆布などと共に欠かせないし、料理の見た目、香りやコクの付加として最後に振りかける工夫もしている。

「削り節」は、今や自分にとってなくてはならない存在だ。
しかし出汁の作り方が難しく、自分の思った味が出せない、悪戦苦闘の連続だ。


共に26歳

2010年05月06日 | 感じるまま

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散策をしていると、歴史上の一つの出来事が、別の出来事や自分の記憶と不意に結び付く時がある。

自分は幼い頃から、日本の中世の軍記物語が好きだった。源義経と弁慶の活躍に胸が躍り、彼等の落のびる描写には心動かされ、屋島・壇ノ浦の戦いには一喜一憂し、また耳なし芳一の話には恐怖を感じなど、今思えば中世歴史の流れの断片しか記憶に無かった。知識としても不十分だった。今、「そうだったのか!」と全体の流れが理解でき、別の興味が湧いてくる。


この漁港のはずれに八大龍王神社がある。その由来書きには、漁業に携わるものの守護神で、主として水中に住み、雨や雲を起こす神通力を持つと信じられ、法華経では釈迦が教えを説いたときに、その説法を聞いた八尊の龍王の名が八大龍王と称されている。また、小坪の漁師にも厚い信仰があり現在に伝えられている、とある。

八大龍王と言えば、鎌倉の三代将軍・源実朝が詠んだ歌が残っている。
  時により過ぎれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめたまえ

この時、実朝は20歳。父・源頼朝を6歳の時亡くし、12歳で兄である二代将軍・頼家を亡くして、将軍となり朝廷との関係や幕府内の勢力争い等の陰謀、術策の渦巻く時代を生きた。そして建保7年(1219年)右大臣の地位を得、そのお礼のために八幡宮参詣の帰途、今年三月に倒れた大銀杏に隠れていた甥の公暁(兄・頼家の子)に襲われ若い命を落とした。満26歳だった。
子は無く、源氏将軍は三代で絶えた。


その21年前、平家の嫡流・六代御前(平維盛の子・平清盛の曾孫)が斬首され、その墓は樹齢数百年になるであろう、大人が三人でも手を回しきれないほどの欅の木二本に守られているかのように、逗子湾に注ぐ田越川のたもとにヒッソリと建っている。
六代御前は、平氏滅亡後捕らえられ、文覚上人の助命嘆願もあり処刑を免れ、その後、妙覚と号し僧としての修行に旅に出た。
そして文覚上人の三左衛門事件で再度捕らえられ、鎌倉に送られ処刑された。満26歳だった。
子は無く、平家は途絶えた。


改めて「平家物語」冒頭の『祇園精舎の鐘の声・・・・・・・、おごれる人も久しからず、唯春の夢の如し』が、口をついて出る。

源氏も平家もその嫡流が途絶えたのは共に満26歳だった。
自分の記憶や想像の中の源平の戦いも、やっと終わりを告げた。

それでも時だけは、正確に過ぎ去っていく。