ペリー来航から7年後の安政7年 (1860年)、勝海舟は咸臨丸の艦長としてアメリカを往復した。その咸臨丸フェスティバルが浦賀で開かれた。その足で、ずっと気掛かりだった「おりょうさん」が眠る墓がある信楽寺(しんぎょうじ)を訪ねた。
「おりょうさん」は、幕末の風雲児・坂本龍馬の京都での「寺田屋騒動」の折、龍馬の危急を救った女性としか知らなかったし、その後どんな人生を送った人なのか興味もあった。
本堂には二人の等身大木造坐像が寄り添う様に安置してあった、「おりょうさん」が好きだったと言う月琴と共に。
また墓地には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれたかなり大きな墓石があった。墓石を見ているうちに、なんだか納得できない何かが頭を過ぎったため、その後資料を集め読んでみた。本人の手紙や日記などは一切残っていないと言う。
「龍(おりょう)」は京都の町医師の長女で弟二人、妹二人がいた。19歳の頃、父が他界し、一家を支えるため、他家に仲働きに出る。
その頃、龍馬と知り合い、その後龍馬の定宿の寺田屋の手伝いとして「お春」と言う名前で住み込む。
「寺田屋騒動」をキッカケに、西郷隆盛や小松帯刀の仲人で二人は結婚し、龍馬の手の怪我の療養を兼ね西郷隆盛等に同行して鹿児島への旅に行く。
霧島温泉などで療養し、高千穂の峰の天の逆鉾を引き抜いて遊んだり、この頃の数週間が「おりょうさん」にとって、生涯で子供時代を除けば、最大の安らぎの時だったに違いない。
この頃、龍馬が乙女姉さんに宛てた手紙に「まことに面白き女にて、平凡だけどピストルも撃つことも出来る女」と紹介している。
龍馬が京都・近江屋で暗殺された時、「おりょうさん」は鹿児島旅行の帰りそのまま下関・海援隊支店に居て難を逃れた。この時龍馬は三十三歳、「おりょうさん」は二十七歳。結婚生活はわずか一年十ヶ月だった。
長府で追悼式を行った際、「おりょうさん」は惜しげもなく黒髪をプッツリ切って龍馬の霊前に供えた、そして名を龍馬が名づけた「とも」に変えた。
未亡人となった「おりょうさん」は、夫・龍馬の実家の土佐の坂本家に移り住んだが長続きしなかった。
この頃、ある土佐藩士は、「おりょうさん」の事を『大変な美人だが、賢婦と言えるかどうかは疑わしい。善にも悪にもなるような女』と評している。
その後、京都・大阪・東京・横浜と明治初年まで流浪の生活が続き、波乱の連続だったらしい。その原因や生活状況については、いろいろの説があるが資料が全くない。
ただ、はっきりしていることは、戸籍簿が残っていて、その後再婚し「ツル」の名前で入籍している。
晩年は、生活は困窮し知人から米、味噌、醤油などを借りての日々もあったらしい。
そして明治三十九年一月十五日に死亡し横須賀で生涯を終えた、六十六歳だった。
「おりょうさん」の葬儀は、再婚者や知人・隣人の助力で営まれ、遺骨は当時の信楽寺住職の好意により、この地に葬られたとの事。
この知人は後に、「大酒飲みでやたらに威張りちらす、いやどうも、とんでもない鉄火婆さんだったよ」と語ったらしい。
信楽寺の墓には「坂本龍馬の妻龍子」としっかりと刻まれているが、「ツル」は無視されている。再婚相手の心情は複雑だったに違いないと思う。その後、再婚相手も同じ寺に葬られたが墓は別になっている。
もし龍馬が暗殺されていなかったら、「おりょうさん」はどんな人生を歩んだのだろう。
「おりょうさん」もまた風雲児だった。
毎年秋には、「おりょうさんまつり」として墓前祭と「おりょうさん」を偲び月琴(げっきん)の演奏会が開かれているそうだ。