唐津から伊万里へ向かい、高校時代の友人達と打ち解けた時間を持った後、旬の海の幸を求めようと平戸に足を伸ばした。
島内を巡る内に、ふとカメラのシャッターを押したくなる光景に出会い足を停めた。それはカトリック教会の尖鋭な屋根や十字架と仏教寺院の屋根瓦などが重なって見える光景だった。日本と西洋との文化を交差させている平戸らしい景観だと思った。
教会の中で「かくれキリシタン」の文字を目にした。
今から460年前にポルトガル船が入航して以来、平戸は日本最初の国際港として栄え、同時にキリシタン布教の地としても栄え、特に隣の島の生月島・根獅子では住民全員が信者になったと言われているそうだ。
「かくれキリシタン」に関連して「踏絵」、「宗門人別改」、「納戸神」、「オロクニン様」等の文字が気になって生月島に渡った。そして根獅子に足を運んだ。
資料を見て、知れば知るほど信者にとって受難の連続だったことが解る。キリシタン禁教以来、「踏絵」・「宗門人別改」等、追及の手を逃れるため、表面上は仏教徒となり、隠れて信仰を続けた。弾圧の時代も「納戸神」として潜伏する信仰が続けられていたらしい。また土地の人に聞いても多くは語らないが、その人の家には納戸の壁に塗りこめられた木製のマリア像が今でもあるらしい。
ここには聖地となっている「ウシャキの森」があり、また目の前の根獅子の浜には殉教した「オロクニン様」の記念石もある。
キリシタン弾圧で多くの信者が処刑され、白い砂浜は赤い血で染まったと伝えられている。地元の人は、殉教者の血が流された浜ゆえに聖地として、砂浜を歩くときは履物を脱いで素足で歩いていたと言う。
信者が一番の受難者だが、地球を半周もしてやって来た宣教師も多くの人達が命を落とした。
貿易事業に利権を持つ各国政府の介入や政治的思惑から時の権力者に人生を翻弄された信者や宣教師達も少なくなかったに違いない。
長崎には至るところにキリシタン受難の歴史がある。
この根獅子の浜に立ちながら、先月、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂に行った時の光景を思い出した。
50歳代の白人男性がすでに30分以上も頭を垂れ、祈り続けている。自分も無意識にその男性のやや後ろ横の席に膝を付き、そして横顔を見ると涙が流れ続けている。正面を見上げると燃えるロウソクの一段高い向こう壁には、キリスト受難の大きなフレスコ画がある。それを見詰めているうちに、ふいに自分も胸からこみ上げてくるものがあった。
何故だろう。思えばこれまで様々な事柄を経験したが、あの時、自分の胸に何が去来したのだろうと今、自問自答をする。
宗教って何だろう、って改めて考える。
法事の時しかお寺に足を運ばない自分は解っていない。