海側生活

「今さら」ではなく「今から」

かくれキリシタン

2010年08月30日 | 感じるまま

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唐津から伊万里へ向かい、高校時代の友人達と打ち解けた時間を持った後、旬の海の幸を求めようと平戸に足を伸ばした。

島内を巡る内に、ふとカメラのシャッターを押したくなる光景に出会い足を停めた。それはカトリック教会の尖鋭な屋根や十字架と仏教寺院の屋根瓦などが重なって見える光景だった。日本と西洋との文化を交差させている平戸らしい景観だと思った。

教会の中で「かくれキリシタン」の文字を目にした。
今から460年前にポルトガル船が入航して以来、平戸は日本最初の国際港として栄え、同時にキリシタン布教の地としても栄え、特に隣の島の生月島・根獅子では住民全員が信者になったと言われているそうだ。
「かくれキリシタン」に関連して「踏絵」、「宗門人別改」、「納戸神」、「オロクニン様」等の文字が気になって生月島に渡った。そして根獅子に足を運んだ。
資料を見て、知れば知るほど信者にとって受難の連続だったことが解る。キリシタン禁教以来、「踏絵」・「宗門人別改」等、追及の手を逃れるため、表面上は仏教徒となり、隠れて信仰を続けた。弾圧の時代も「納戸神」として潜伏する信仰が続けられていたらしい。また土地の人に聞いても多くは語らないが、その人の家には納戸の壁に塗りこめられた木製のマリア像が今でもあるらしい。

ここには聖地となっている「ウシャキの森」があり、また目の前の根獅子の浜には殉教した「オロクニン様」の記念石もある。
キリシタン弾圧で多くの信者が処刑され、白い砂浜は赤い血で染まったと伝えられている。地元の人は、殉教者の血が流された浜ゆえに聖地として、砂浜を歩くときは履物を脱いで素足で歩いていたと言う。

信者が一番の受難者だが、地球を半周もしてやって来た宣教師も多くの人達が命を落とした。
貿易事業に利権を持つ各国政府の介入や政治的思惑から時の権力者に人生を翻弄された信者や宣教師達も少なくなかったに違いない。
長崎には至るところにキリシタン受難の歴史がある。

この根獅子の浜に立ちながら、先月、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂に行った時の光景を思い出した。
50歳代の白人男性がすでに30分以上も頭を垂れ、祈り続けている。自分も無意識にその男性のやや後ろ横の席に膝を付き、そして横顔を見ると涙が流れ続けている。正面を見上げると燃えるロウソクの一段高い向こう壁には、キリスト受難の大きなフレスコ画がある。それを見詰めているうちに、ふいに自分も胸からこみ上げてくるものがあった。
何故だろう。思えばこれまで様々な事柄を経験したが、あの時、自分の胸に何が去来したのだろうと今、自問自答をする。

宗教って何だろう、って改めて考える。
法事の時しかお寺に足を運ばない自分は解っていない。


オフクロの味

2010年08月27日 | 最大の財産

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日常決めている事を何もしない、言わば自分だけの長い夏休みを取った。

誰にも「懐かしい味」や「懐かしい食べ物」を持っていると思う、オフクロの味がその筆頭にくるかも知れない。
自分にとって「それ」は唐津のオフクロの生家である。昔ながらのお盆の風習も受け継いでいて、その期間を過ごさせて頂いた。

今は従兄弟が奥さんと共に、現代に即した新家風を見事に築いている。
先代から引き継いで12年目、従兄弟らしい雰囲気が出始めた庭の端には青い木瓜の実が大きくなっていた。
従兄弟は毎日、庭の白砂に波形を描いている。最近は描いていると気持ちが落ち着くと言う。

正午に和尚さんが来て供養の読経が始まった。自分もご先祖様を偲び、現状を報告した。親戚の者達が入れ替わりにお参りに来る。仏壇のある部屋から隣室まで襖を取り払い、一つの大きな部屋になった座敷には、大きな和式テーブルを横一線に五台置き、所狭しとばかりに大皿に盛られた料理が並ぶ。やがて会食が始まる。和尚さんとお坊さん見習い中の中学生になる和尚さんの長男も同席する。そういえば今の和尚さんも先代の和尚さんに同行し、隣に座って読経していたのを思い出す。

日頃会えない叔父さんや叔母さん、従兄弟達やその子供達とも話が弾む。家中がまるでお祭りにように賑やかだ。
和尚さんの笑い声も時折聞こえてくる。この賑やかさは夕方になっても終わる事が無い。
外に帳が降りた頃、夫々が改めて仏様にお参りして家路につく。幼い子供らのお参りの仕草がなんとも微笑ましい。きっとこの子らは赤ちゃんの時から仏様をお参りする礼儀作法を普通の事として教えられ身に付けているに違いない、と感じる。
40人もの親戚の者達が家路についた頃、やっと奥さんは椅子に腰を下ろし一息つく事が出来た。

精霊菰を手に提げ、家名の入った提灯を先頭に、夜道を浜まで歩き、そして精霊菰の前に線香を上げ、ご先祖様の無事のお帰りを願ってお参りをする。そして波打ち際まで運び、小さな提灯を船に立て海に流した。この町の伝統行事でもある。
真っ暗な浜や海面には、あちらこちらに風や波に揺れている提灯が見えている。

先祖との繋がりを感じると同時に、自分の現在の健康状態や境遇を見つめ直した時間でもあった。

浜の端にはライトアップされた唐津城が遠く闇の中に白く浮かんでいた。


挑戦者の色か

2010年08月06日 | 魚釣り・魚

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釣り船に乗った
小坪港を出て10分ぐらい走った葉山の沖あたりで、隣に立って海を眺めていた、釣スタイルの決まっている青年が「コバルトブルーだ、綺麗だな」と誰に言うともなく呟いている。その声に導かれ、船べりから身を乗り出すように、走る船のすぐ横を見下ろすと、確かに朝陽を受けた海は普通の青ではない、もっと何倍も薄い青い海の色だ。空の青が映っているのでもない。
この辺りは、深さも無く、海底は砂地だ。

青と言うと先月「青の洞窟」に入ってみた。
ナポリから船で40分、カプリ島に着く。大きくは無い港には豪華なヨットやクルーザーが舳先を並べ停泊していた。
カプリ島の周囲の多くは断崖絶壁であり、そこには海食洞が散在している。「青の洞窟」は、そのうちの一つだそうだ

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この洞窟には、洞窟のある入り江から手漕ぎの小船に乗り替えて入って行く。入り口は狭く、半ば水中に埋もれている。船頭は入り口に張られた鎖を引いて小船を洞窟内へと進めるが、その際に乗客は頭と体を船底に沈めるないと頭をぶっつけてしまう。天候や波の状態により、進入不可能である場合も多いとか。

洞窟内に入ると外からは予想もできなかった、かなり広い空間が広がっていた。洞窟の入り口から日光が差し込み、透明度の高い海水をつきぬけて海底で反射した光が暗い洞窟内の海水面から抜け、それが海底からライトアップされたような効果となり、入り口付近の海水を青い光で満たし、洞窟全体がクリスタルブルーに染まっていた。神秘的な雰囲気だ。暗い洞窟の天井にもその青さが写っていた。

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「青の洞窟」は沖縄のダイビングポイントとして有名な恩納村真栄田岬で潜った経験を持つが、そこには様々な魚達が乱舞していた。
カプリ島の「青の洞窟」にも潜ってみたいと言う衝動に駆られた、海中で青い光りの帯の中に身を委ねてみたいと思った。
しかしダイビングは禁止されていた。

青色に接すると気持ちが妙な騒ぎ方をする。
ボクシングの世界では青コーナーには挑戦者が控える。チャンピオンは常に赤コーナーだ。
ビジネス現役時代からの習慣がいまだに心の片隅に残っているのか。

釣果は狙ったカイワリを始めて釣り上げた、40cmだった。 船長がこのサイズのカイワリは滅多に目にしない、記念にとTシャツを頂いた、釣宿のネーム入りだった。
カイワリは刺身にして食した。シットリとした旨み味が十分で、シマアジよりも美味かった。
気がついたら白ワインが一本、空になっていた。