海側生活

「今さら」ではなく「今から」

「たかが」と「されど」

2018年10月24日 | 海側生活

   (秋明菊/海蔵寺)
人間には気分の浮き沈みがある。

もちろん自分にもある。時々尊大になっている自分に気付く時がある。人に褒められたり、何かをお世話して感謝されたりしたときなど、つい有頂天になってしまう時がある。そして他人に対し増長したり、万能感を味わったりする。そんな時、自分は間髪入れず自分に「たかが自分」と言い聞かせることにしている。
また本当に久し振りに出会った人から現役の頃の仕事ぶりを感心して誉めてくれる人もいる。しかし「たかがサラリーマンだった」と自分に言い聞かせる。実際にその通りだった。自分よりも優れた結果を出した仲間も数多くいた。たかが自分の仕事だ。その仲間に比べたら恥ずかしくて人前には出られない。

逆に自分はめげてしまう事もある。どうして自分は力がないのだ、なんでダメな人間なのだろう。そんな時は何をしても上手くいかず、才能ばかりでなく根性も無い。又失敗してしまい醜態をさらしてしまった。そう思うことが今でも度々ある。
そんな時、「」されど自分」と言い聞かせることにしている。
「次は出来るかもしれない。これまでも成功したことだってあるではないか。自分の事を認めてくれている人もいるではないか」そう言い聞かせる。

「たかが」と「されど」の往復運動の中で自分は生きている。そして、その二つを使い分けることで、バランスを取り、それほど尊大にならず、絶望に沈んでしまう事も無く生きているように感じる。

この「たかが」と「されど」のバランスは長年の経験の中で自分が身に付けた生き方の一つだ。どちらかに行き過ぎそうになったら、反対の方向で考える。もしこのバランスが取れなくなったら、今の海側生活も生きていけなくなりそうだ。

分かりにくい

2018年10月20日 | ちょっと一言

     (材木座から)
この会社は何を作っているのか、何を売っているのか、つまりどんな会社か分からない社名を持つ会社が増えた。

○○銀行、××製鉄、△△製薬、と言えば、それなりに一見して業種が分かる。しかし近年の流行かもしれないがアルファベット三文字だけや片仮名だけの会社名では、何の会社か推測すら難しい。「オレの会社の内容は改めて言わなくても世間が知っているはずだ」という驕りにも似た空気を感じさせる。
そんな会社は社内に緊張感もなく社会的な使命も持ち合わせていないのだろうと思う。

先週のある日、日本の株価は1000円を超す下げを演じた。
興味本位で東京証券所市場のその日の値下がり率上位の30社をリストアップしてみた。結果は予想を超え、26社までが社名に漢字が一文字も入っていない会社だった。また今年、新規上場を果たした会社を見てみると82社の内、社名に一部でも漢字が使われているのは15社だけだった。

流行を追う政治家も困る。国政であれ、地方であれ自分の名前を平仮名に書き換える人が増えている。
そんな政治家はおそらく信念がない人なのだろう。もちろん世間には読み方が分からない難しい漢字を使った本名があるものだ。選挙にはプラスにはならない。そういう場合の平仮名書きは当然だ。しかしそれ以外の理由で選挙のポスターに平仮名名前を見ると白けた気分になってしまう。
人は運命をそのまま受容すべきなのだ。名前どころか病気や才能のある無しまで受け入れ、それらを全て自分の属性として勇気をもって使うべきだ。そう言う基本的な姿勢を持たない人に政治をされたら困る。

公を目指すなら、自分を知ってもらうためのあらゆる努力をする姿勢は、社会や世間一般に対する礼儀正しさと謙虚さと緊張の表れではないか。

ウサギの声を

2018年10月13日 | 海側生活

(本覚寺/鎌倉)
寒露に入った。
野草にも冷たい露が宿り始める。長雨も終わり五穀の収穫も盛んになり、農家では繁忙を極めている事だろう。さらにツバメなどの夏鳥と雁などの冬鳥の交代の時期だ。

そして黄葉・紅葉はこれからが本番だ。経験がないほどの炎暑をしのぎ、数度の台風にも耐えた分、普段の年以上に色鮮やかに染め上げていくだろう。と今年こそ納得がいく写真撮影を楽しみにしていたが、どうも様子がおかしい。近くの歩道の植え込みの木々の葉は黒ずみ、ちじれ、半分以上がすでに落ちてしまった。銀杏も色付く前に大半の葉を落としてしまった。
ここは海から近いから、先の台風の強風に乗って運ばれた塩害だと納得した。気になり、海から離れた北鎌倉の寺社を確認のため巡ってみた。驚いたことに何処の寺社でもほとんどの楓が葉の先がチリチリにちじんでいる。楓ばかりではない。秋明菊やコスモスの葉も花も楓と同じように黒ずみ、まるで活けてから一か月も経たような哀れな姿を晒している。変わらぬ姿を凛と保っているのは松の葉ぐらいだ。

鎌倉の今秋の黄葉・紅葉は期待できない。
どこもが年老い疲れ切った道化師がすべての化粧を落とし、素顔に戻り、壁にもたれてへたり込んだような表情を見せていた。

ただ本覚寺の大きな栴檀は葉の全てを落とされ、むき出しになった緑色のままの実が高い青空にキラッキラッと光っていた。いつもの年だったら、この時期は葉に隠れて実はまだ見えないのに。この実は秋が深まる頃、黄色に色づき、鳥たちのご馳走になる。変わった光景が見られるのも塩害のなせる業か。

せめて十三夜の、月に住むというウサギの声に耳をすましてみるか。