(秋明菊/海蔵寺)
人間には気分の浮き沈みがある。
もちろん自分にもある。時々尊大になっている自分に気付く時がある。人に褒められたり、何かをお世話して感謝されたりしたときなど、つい有頂天になってしまう時がある。そして他人に対し増長したり、万能感を味わったりする。そんな時、自分は間髪入れず自分に「たかが自分」と言い聞かせることにしている。
また本当に久し振りに出会った人から現役の頃の仕事ぶりを感心して誉めてくれる人もいる。しかし「たかがサラリーマンだった」と自分に言い聞かせる。実際にその通りだった。自分よりも優れた結果を出した仲間も数多くいた。たかが自分の仕事だ。その仲間に比べたら恥ずかしくて人前には出られない。
逆に自分はめげてしまう事もある。どうして自分は力がないのだ、なんでダメな人間なのだろう。そんな時は何をしても上手くいかず、才能ばかりでなく根性も無い。又失敗してしまい醜態をさらしてしまった。そう思うことが今でも度々ある。
そんな時、「」されど自分」と言い聞かせることにしている。
「次は出来るかもしれない。これまでも成功したことだってあるではないか。自分の事を認めてくれている人もいるではないか」そう言い聞かせる。
「たかが」と「されど」の往復運動の中で自分は生きている。そして、その二つを使い分けることで、バランスを取り、それほど尊大にならず、絶望に沈んでしまう事も無く生きているように感じる。
この「たかが」と「されど」のバランスは長年の経験の中で自分が身に付けた生き方の一つだ。どちらかに行き過ぎそうになったら、反対の方向で考える。もしこのバランスが取れなくなったら、今の海側生活も生きていけなくなりそうだ。