海側生活

「今さら」ではなく「今から」

恋の歌が300首

2010年03月29日 | 季節は巡る

X_005

桜でなくともキレイな花なら他にも沢山あるのに、いつから桜が気になり始めたのか。30歳を過ぎても何も興味はなかったように思う。
今は毎年、二月になると早咲きの桜を河津に観に行く。

振り返ってみると、ある時、何気なく読んだ誰かの紀行文に西行法師の歌が引用されていた。
 願わくば花の下にて春死なむ その如月の望月のころ(山家集)
この句に、強烈な印象を抱き、それから西行に関する著書を片っ端から読み耽けた時期があった、西行を主人公にした小説までも。

裕福な武士の家系に生まれ、幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉となり、御所の北側を警護する、院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」に選ばれた。同僚には同年の平清盛がいた。北面生活では西行の歌は高く評価された。武士としても実力は一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」の達人だった。さらに、「蹴鞠(けまり)」の名手でもあった。しかし23歳で出家した。
悟りの世界に強く憧れつつ、現世への執着を捨てきれず悶々とする中で、花や月に心を寄せ、歌を詠んでいた西行。あくまでも素朴な口調で心境を吐露し、自然や人生を真っ直ぐに見つめ、内面の孤独や寂しさを飾らずに詠んだ西行の和歌は、どこまでも自然体だ。

源平動乱の混沌とした世界にいて、自分の美意識や人生観を最後まで描き出した。

晩年、源平の争乱で焼け落ちた東大寺再建の砂金勧進のために遠縁にあたる奥州・藤原秀衡を平泉に訪ねている。その途中で鎌倉に立ち寄り、源頼朝に請われて流鏑馬の技法などを講じたと伝えられる。西行は鎌倉に滞在して欲しいという頼朝の願いを断り、せめて土産にと贈られた高価な銀製の猫は受け取ったが、館の外で遊んでいた子供にこれをあげてしまったという話が『吾妻鏡』に記されている。

西行は、その歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。享年73歳だった。
鎌倉で現在も毎年行われている「流鏑馬」は、西行がコツを伝授した翌年から行なわれるようになったと言う。

歌は全2090首のうち恋の歌は約300首、桜の歌が約230首。

春風に早くも散り始めている花びらがあると言う。その下を歩きながら、今年も桜を観ることが出来たと言う喜びを秘かに噛み締めてみたい。
そのささやかな愉しみがもうそこまで近く来ている。


初めての金メダル

2010年03月22日 | 感じるまま

U_018_2

バンクーバー冬季パラリンピックで、スキー・クロスカントリー、10kmクラシカル立位で新田佳浩さんが金メダルに輝いた。
2月のオリンピック以降始めての金メダルだ。

一周5kmのコースを2周する。まるで左手にもストックを持っているような強い腕の振りだ。コース途中まで出向き「ヨッちゃん、頑張れ!」と叫び続け、トップでゴールした瞬間は両手で顔を覆い、肩を震わせていた奥さん。

レース終了後、コースのゴール辺りで行われた表彰式で、新田さんは満面の笑みを浮かべている。国旗掲揚台の真ん中に日本国旗が揚がり、自分も思わず流れる日本国歌に思わず聞き入る。

国歌「君が代」の歌詞は天皇崇拝の意味合いが強く、軍国主義を象徴しており君主制ではない日本にはふさわしくないと、反対の意見もある。これまでも学校等の行事で国歌斉唱反対の動きはあった。

「君が代」が国歌になったのは、明治政府が出来て、国には国歌と言うものが必要だなとなった時、それを決める立場にあった旧薩摩藩士と旧幕臣だったことに始まる。彼らは困って上司に相談したら、そんなものはお前達で決めろと言われ、そこで不意と口について出たのが「古今和歌集」の読み人しらずの歌だった。徳川家では毎年正月にこの歌を歌っていたし、薩摩を始め国持大名家でも歌われていた。主人の長寿を願い、家の繁栄を祈って、又家族の幸を願わない者はいない。

自分は子供の頃から荘厳な感じがして好きだった。

また、サッカーのワールド・カップやオリンピックでも、日本を代表して世界が注目する舞台に立つ人なら、会場に流れる「君が代」吹奏に合わせ口を正確に動かせて当然だと自分は思う。

アルペンスキー男子スーパー大回転座位で狩野亮さんも金メダルを獲得した。
さらに最終日、新田佳浩はノルディックスキー距離の1kmスプリントクラシカル立位でも優勝し、今大会2個目の金メダルに輝いた。

国際大会で日章旗が揚がり、「君が代」が流れるシーンは、いつ見ても聞いても素直に嬉しい。感動すら覚える。


春告魚

2010年03月20日 | 魚釣り・魚

Photo

春の便りや風物詩があちこちから聞こえて来る。

長野・諏訪の友人から蕗の薹が送られてきたし、佐賀に住む友人からは庭にムスカリが、続いて早くも芝桜が咲いたとの便りもあった。
春を告げる言葉には花の他にも、風や光りにもあるし、また鳥や魚などにもある。

自分にとって春告魚は、やはり眼張(メバル)だ。
従来、鰊(ニシン)が3月ごろ、産卵のため北海道の西海岸に近づくことから春告魚と呼ばれていたが、漁獲量が減った事から、近年では春頃、旬となる眼張(メバル)が春告魚と呼ばれるようになって来たらしい。
又、ニシンやメバル以外にも、魚偏に春と書く鰆(サワラ)や、渓流釣りで3月に解禁されることから山女(ヤマメ)、兵庫県ではイカナゴを、また、琵琶湖では稚鮎を、地域や魚と接する立場によって春告魚と呼ぶ魚は異なる。

この沖メバルを船釣りしていても、群れで行動する習性があるためか、一旦釣れ始めると、同じ場所で続けて釣れることが多い。このため、道糸に、三本か四本の針をつけた胴つき仕掛けを用いる。又メバルは視力が良いと言われているため細いハリスを用いる。

メバルは、なにせ食して美味い!
刺身・吸い物・味噌汁・煮付け・塩焼き・炊き込みご飯・天婦羅・から揚げ等どんな料理にしても美味い。
これを食する時、春は間違いなくやって来たと感じる。

旬の様々なことに思いを巡らしていると、久し振りに郷里に行き、ムスカリを一茎花瓶に生け眺めながら、メバルの煮付けでイッパイやりたい気持が胸を過ぎってくる.

気が付けば、春は海にも山にも街にも足早にやって来た。

やがて季節の主役も変わる。


風景の色が違う

2010年03月15日 | 季節は巡る

09040908p4090015_2

寒い日が続いて、ある朝起きると晴れていた。窓を開けると外は暖かい空気が流れている。吐く息も白くならない。

一歩外に出ると、玄関横にも隣家の軒下にも道端にも、小さな名も知らぬ花々が色とりどりに咲いている。裏山を見上げると一面茶色の藪の中に、薄緑の若葉もずいぶん増えた。

こんな日に鎌倉・小町通りを歩いてみた。歩き始めて何かが違うと思った。暫くして分かった。風景の色が違うのだ。
寒かった日々の黒ずんだ通りが一変している。通りを歩く女性達が街を、通りを変えてしまうのだ。通りの色彩が明るく豊かになった。
身に着けている服が、横に大きく成長している人も細身の人も、明るい穏やかな色調で清々しい白やブルーやピンク系が多い。コートを着ていない人もずいぶん多い。
柔らかな日差しを受けて、女性達の髪も輝いている。太い足も、細い足もブーツなんか履いていない。

春の訪れはいろいろなもので知る事が出来る。
草花や風や光りも巡り来る季節を教えてくれる。

春は待ちわびなくても確実にやってくる。


ワカメは好きですか

2010年03月12日 | 浜の移ろい

Q_002

久し振りにワカメ漁に船を出すどの漁師も、今朝は笑顔だ。交わす挨拶にも力が入り、気持が弾んでいるのが自分にも伝わってくる。
思えばこの十日間余りは最盛期を迎えているワカメ漁だけでなく、殆どの漁が出来なかった。
天候が良くなかった。春一番らしい風が強い日もあり、梅雨みたいな雨が降る日もあり、津波騒ぎもあった、雪が降った日もあった。

ワカメ漁は、メガネと呼ばれる海底を覗き込む大きな箱を口に咥え、足で舵を操り、長い竹竿に釜が付いた道具を使って、海底に生えたワカメを刈り取る。天日と寒風で乾燥させる方法を取る小坪では、風や波の強い日や雨の日は作業が出来ない。昨日は快晴で、朝から富士山から大島までもスッキリと浮かんでいたが、前日の強風でウネリが残り、また海水も透明ではなかった。海底が見えないと刈ることが出来ない。

この十日間余り港は静かだった。朝夕、数少ない遊漁船が出入りするだけで、日中は物音一つしなかった。どの浜小屋からも音が途絶えていた。人が居ないと猫も姿を見せない。
Q_004

ワカメ漁の作業は手間が掛かる。手がいくら有っても充分と言う事はない。ご近所のご隠居さんもまた漁業に関係ない人でも近くに住む人は手伝いに浜に来る。また、土地の人ではない若者達も作業に加わっている。しかも彼等は労働の対価を求めてはいない。
自分は、度々顔を合わせる若者の一人に興味が湧き、作業の合間に聞いた。
「ワカメは好きですか」
「好きです。-----でもワカメと言うより、浜で潮風を浴びながら、年代も価値観も全く違う人達と作業をしている時間は、私にとっては一種のセラピー。多忙の日常からふと抜け出し、ユッタリと流れる時の中で淡々と肉体労働すると、心身ともにすっきりリセットされて感覚も冴えるような気がします」
判るような気がする。自分は、それらを求めてここで「海側生活」を始めた。

都心の外資系企業でデスクワークをしているこの若者は、これからも休みの度にこの浜に来るだろうと思う。
人として自然との繋がりを求めて。

薄曇の中、浜一帯に春の香りが漂っている。


手に取る思い出

2010年03月05日 | 思い出した

Photo

男が好きなものは、その一生において動物、植物、そして鉱物の順に変わっていくと言う説がある。
美術評論家で詩人の宗左近さんの本に書いてある。若いときの動物とは女性、中年以降の植物とは桜とか植木、そして老年の鉱物は陶磁器だそうだ。尤も最後の鉱物が、金の延べ棒だったりメダル(勲章)だったりする人もいるようだ。

自分も鉱物の境地に達したらしく、この「海側生活」を始めてから“ぐい呑み”を手にする機会が増えた。

ただ、陶磁器に造詣が深い訳ではない。
少年時代を過ごした伊万里には、日常生活の中で伊万里焼の陶磁器がいつも身近にあった。振り返ってみるとその影響だと思うが、成人後もサラリーマン時代から、おおよそ30年間以上に渡って、地方出張やゴルフ旅行等の度に時間を創り、地元の窯元を訪ね、主人と話しながら、観て気に入ったものを買い求めてきた。自分の足跡を何かの形で残したかった。そして、いつの日かこれらを並べたものを観たいと考えていた。
北海道地区のものは皆無だが、あとは多くの土地の“ぐい呑み”が今、手元にある。価額は今でもハッキリと覚えているが300円だったものから、かなり高価なものまで様々だ。

“ぐい呑み”を買い求めると大抵、桐箱に入れ、布紐で十文字に結んでくれる。それを最初から大きな段ボール箱に無造作に放り込んでいた。「海側生活」をするようになって、初めて段ボール箱から一つ一つを取り出し、そして桐箱を開け、専用の棚に置いてみた、60個あった。
一つ一つに、その土地での出来事や人との出会いなど、それぞれの思い出がある。

やっと今、それらを手に取り、その土地での遊びや仕事を思い出しながら、懐かしむ時が来た.

さて今日は、どれで一杯やろうか。

手に取れば思い出が見えてくる。