桜でなくともキレイな花なら他にも沢山あるのに、いつから桜が気になり始めたのか。30歳を過ぎても何も興味はなかったように思う。
今は毎年、二月になると早咲きの桜を河津に観に行く。
振り返ってみると、ある時、何気なく読んだ誰かの紀行文に西行法師の歌が引用されていた。
願わくば花の下にて春死なむ その如月の望月のころ(山家集)
この句に、強烈な印象を抱き、それから西行に関する著書を片っ端から読み耽けた時期があった、西行を主人公にした小説までも。
裕福な武士の家系に生まれ、幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉となり、御所の北側を警護する、院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」に選ばれた。同僚には同年の平清盛がいた。北面生活では西行の歌は高く評価された。武士としても実力は一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」の達人だった。さらに、「蹴鞠(けまり)」の名手でもあった。しかし23歳で出家した。
悟りの世界に強く憧れつつ、現世への執着を捨てきれず悶々とする中で、花や月に心を寄せ、歌を詠んでいた西行。あくまでも素朴な口調で心境を吐露し、自然や人生を真っ直ぐに見つめ、内面の孤独や寂しさを飾らずに詠んだ西行の和歌は、どこまでも自然体だ。
源平動乱の混沌とした世界にいて、自分の美意識や人生観を最後まで描き出した。
晩年、源平の争乱で焼け落ちた東大寺再建の砂金勧進のために遠縁にあたる奥州・藤原秀衡を平泉に訪ねている。その途中で鎌倉に立ち寄り、源頼朝に請われて流鏑馬の技法などを講じたと伝えられる。西行は鎌倉に滞在して欲しいという頼朝の願いを断り、せめて土産にと贈られた高価な銀製の猫は受け取ったが、館の外で遊んでいた子供にこれをあげてしまったという話が『吾妻鏡』に記されている。
西行は、その歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。享年73歳だった。
鎌倉で現在も毎年行われている「流鏑馬」は、西行がコツを伝授した翌年から行なわれるようになったと言う。
歌は全2090首のうち恋の歌は約300首、桜の歌が約230首。
春風に早くも散り始めている花びらがあると言う。その下を歩きながら、今年も桜を観ることが出来たと言う喜びを秘かに噛み締めてみたい。
そのささやかな愉しみがもうそこまで近く来ている。