海側生活

「今さら」ではなく「今から」

体に良くない数字

2009年10月28日 | ちょっと一言

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数字ってなんだ。
時間に追われるような仕事はしていないからに違いないが、「海側生活」をするようになってから、あらゆる数字から努めて離れる生活を意識している。

しかし数字は身の回りのいたる処に在る。
時計を始め、カレンダー、携帯電話、各種カードの暗証番号や家電製品、洋服・靴のサイズにいたるまで。多分現代の私達は数字無しには一日も暮らせないのだろう。

何でも数字で評価できる。住んで居る所の土地の広さ・建物の面積で、そこはどんな人気度の地域で、どんな車を持っていて、子供にはどれだけの学費の掛かる教育をしていて偏差値はいくら、またどれだけ納税しているか等など。

遊びの魚釣りでも数字で表す。釣り糸、ハリス、針の大きさ。錘の重さ。タナは海面から或いは海底からの距離を測る。そして釣った魚のサイズは?-等。

健康も数字で計られる。
健康診断の結果、全てが適正値の範囲内ならば誰もがホッとする。適正値外の部位が一箇所でもあったら、とたんに病人になった気がしてガックリする。生活習慣の予防にはなるだろうけど、細かい数字に一喜一憂して大騒ぎするのは不健康だ。

照る日、曇る日があるように、体調にも変化がある。平均値と外れていても溌剌としていたり、検査に何の異常がなくてもションボリとしていたりする事もある。私達が持つ命の力は、多分数字では図れないと最近特に感じる。

自分は「海側生活」に慣れてきたのか 最近、時計を持ち歩かなくなった。


台風余話

2009年10月20日 | 海側生活

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台風18号は各地に被害を残して立ち去った。

ここ小坪でもその爪痕が残った。
港の岸壁の一部が崩れ落ち、舟の乗り降りが不便になった。また港の堤防の一部の波消しブロックが波に押し流され、舟を係留するためのロープの設定をやり直さねばならなくなった。
港の奥まった区域に大量の漂流物やゴミがヤマと打ち上げられ、翌日には40人が出て一日掛かりの掃除を行った。 

また、台風の通過する時間が満潮に近い時間だったためか、打ち寄せる波が、高さ3mの堤防を乗り越え、近くの道路やマンションの敷地に漂流物と一緒に流れ込んだ。
その時、波と一緒に数十匹のイワシが打ち上げられ、他にイナダも混じっていたそうだ。 

そんな時、地元に住む友人は一本の電話を受けた。港の近くのマンションに最近引っ越してきた人が道路の真ん中をユッタリと歩く蛸と出会い、驚き座り込んで眺めていた。そして偶々通りがかった地元の人らしい人に「この蛸は食べられるの」聞くと「あー、この蛸は毒がある蛸の一種かも知れない」と即座に返答し、造作なく手でヒョイと握り上げ、食して美味いと思われる真蛸を自分が持ち帰った、との事。

電話でその出来事を聞いた友人は「ここら辺りに居る蛸は食べられない蛸なんて存在しない」と答えると「---やっぱりね、----」と、蛸好きのその人は後は無言だったそうだ。

海沿いの道路や公園や浜にも、様々な置物をして去った台風は、海の中にはどんな置物をしていったのだろう。
大きな波によって海底まで掻き回され、自分の巣が壊れ困った蛸をはじめ、貝や魚が居るのだろう。一方、浮遊する餌も豊富になり、喜んでいる魚も居るかも知れない。


お十夜

2009年10月17日 | 海側生活

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いつもは広い境内も今日だけは狭く感じてしまう、参道を真っ直ぐには歩けない、人出が凄い。
今日は「お十夜」だ。

鎌倉の数多い寺の中でも海の寺と言える光明寺だ。逗子・小坪との境の古い寺で、前は材木座海岸に向い、後ろは天照山を背負い、浄土宗の中では京都の知恩院に次ぐクラスの格式を持っていた。徳川家康が芝に増上寺を開くまでは、関東随一の寺だったらしい。 
聞けばこの行事は、戦国時代の戦乱の中で庶民は生活に困窮し、まさに飢餓・地獄の様相を現していた。時の後土御門天皇は平和と繁栄を希求され、その願いを十昼夜にわたり念仏を唱える「十夜法要」に託されたとの事。
それ以来、10月の中旬に、今日まで510余年綿々と続いていると言う。

人混みに揉まれながら、お参りすべく本堂に向っても、なかなか前に進めない。途中何人もの顔見知りの出会い、挨拶を交わす。
地元では「お十夜」と親しまれ、お参りの後、参道に立ち並ぶお店で、子供はオモチャをねだり、大人は焼鳥屋等でイッパイ飲むのを楽しみにしている。お盆と正月と同じような感覚らしい。生活の年間行事の中に組み込んでいる人も多い。
焼鳥屋等はどの屋台を覗いても座れる席が無い。
関東の各地よりバスで参加している人達も多い。

本堂に上がり座った。法要は古式に従い、引声阿弥陀経・引声念仏によって行われている。紫衣を纏った法主を先頭にして、30人程の僧侶達が経文を唱えながら、ユックリと本尊の前を輪になるよう歩き方をしている。

やがて香炉が回って来た。
抹香をくべた。手を合わせたら思わず「お蔭様で今、海側生活を満喫し、新たな活力が生まれ来るのを感じます」と呟いていた。
こんな感情を持ち焼香をしたのは初めてだ。

7月頃、ここの池には紅白の蓮の花が咲く。


初雪化粧

2009年10月13日 | 海側生活

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富士山に初雪化粧が見られた。

寝ぼけ眼で窓の外をいつものように見るとは無しに眺めると、雲の上に頭を覗かせた富士山に冠雪が見られた。
冠雪の場所はここから見て右側と言うか北側・山梨県側だ。頂上の少し下から八合目辺りまで、やや太い線状になって、雲の白さとは違ったキラっと光る白色を輝かせている。

いつも間にこんな季節になったのかと見とれていると、30分も経たない間に、頂上辺りも大きな雲の塊に覆われてしまった。

そう言えば最近の報道でも北海道・摩周湖辺りは紅葉が最盛期であるとか、大雪山山系ではいつが見頃であるとか、また十和田湖及び奥入瀬渓谷の今年の紅葉の特徴はとか、八幡平の紅葉にある変化があるとか、日光辺りは例年よりやや遅いとか、さらに西日本の紅葉前線の便りも聞こえてくるようになってきた。

紅葉前線は北から南へ移り進み、やがて紅葉が日本列島から見えなくなって一ヶ月余り経つと、今度は桜前線が南から北上してくる。

ここ逗子の自分の部屋の中では、今まだハイビスカスが咲いている。
しかし季節は今年も又違うことなく巡って来た。


台風一過

2009年10月09日 | 浜の移ろい

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東北地域でまだ台風18号が猛威を奮っているとテレビは伝えている。

その頃、逗子の海は風も殆どなくなった。
ただ波だけが、午前中に比べると大人しくなったとは言え、まだ高さは2~3mはある。波の音だけが何処からともなくゴッーと聞こえてくる。
箱根辺りに沈む今日の夕陽は、何故だか晴れがましいような沈み方をしている。今日の台風と何を語ったのだろうか。
目を転ずると離れた天城山から、遠く伊豆大島辺りまで山ぎはが柿色に染まりだしている。

伊豆半島の山々が、やがてシルエットとなって浮かんできた。
中でもやはり富士山が一際目立つ。どの雲より高くいつもの姿を見せてくれている。
周りの雲は殆ど動いていない、しかも色に染まっていない、ただ黒っぽい色してジッと浮かんでいるだけだ。今日の台風は何をもたらしたのだろう。

夕陽が相模湾を挟んで湾の向こうの、また伊豆半島の向こうに沈むまでの情景は、いつ眺めても映画の一シーンみたいだ。
また沈んでからのひと時には、心を奪われてしまう。
赤く染まる海面が、やがてグリーンがかった紅色に変わり、忍び寄る闇に同化して行くまでの光景には言葉を失う。

やがて江ノ島の灯台に今日も明かりが灯った。
その後、対岸の小田原、真鶴、熱海、伊東そしてさらに離れて熱川の町の明かりが点になって灯り始めた。

少なくとも四日間は、この町は眠っていた。
明日から又この漁港の船舟も人も、そして猫も動き始める。


漁師町の静寂

2009年10月08日 | 浜の移ろい

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朝から雨が降っている。
紫陽花が咲く頃に降るような細かい雨が今日も降っている。今日で三日目だ。風は吹いていない。

いつもは港に停泊している大型舟も中型船も一艘も見えない。やがてやってくる台風に備えて避難港に向った後だ。見慣れた風景と違い港が広く見える。また、どの小さな船も、いつもより高い位置まで浜に引き上げられている。そして前後左右をロープで固定されている。
漁に使われる網をはじめ道具の全てが収納されている。
浜に人影は無い。普段は何処からとも無く姿を現す猫達も今日は全く鳴き声すら聞こえてこない。トンビの影も何処にも見えない。何処からか鴎の鋭い鳴き声だけが時折聞こえてくる。台風が去り、海が穏やかになるまでこの静けさは続くのだろう。

知人から明日は会社を臨時休業にするとの連絡が早々にあった。

夜になり、テレビからは首都圏の方々の小・中学校が明日は休校になったニュースが流れ、フェリーや空の便の運航中止や一部鉄道の運転取り止め等のニュースが流れている。

翌朝、窓から外を見ると、モノクロの世界が目に飛び込んできた。
雲は低く、海は一面に白波が立っていた。波以外は何も見えない、高さ6mはあるだろう。
風は窓を叩きつけ、眼下の椰子の木が大きく揺れている。波消しブロックに当たった波が砕けて大きく飛沫になって舞い上がっている。時折この窓にもバシャッと飛んでくる。

テレビのスイッチを入れると、昨夜に比べ航空・鉄道・船舶・道路等の運行休止の範囲が広がっている。

この人を寄せ付けない海の荒々しさも海が持つ一面か。

やがて、後二日もすれば今日と打って変わって、風は収まり、波は穏やかになり、青い空と青い海を見せてくれるだろう。
そして港はいつもの表情に戻る。
そして最高の釣り日和になるはずだ。


二人の共通の夢

2009年10月05日 | 最大の財産

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Y.Mさんと出会わなければ、今「海側生活」している事はないし、こんなユッタリとした時間を持てる事もなかった。

「さ」行が上手く発音できなかった長崎出身の私と違い、彼は聞き易くてキレイで歯切れの良い標準語を話す人で、良く通る声の持ち主だ。
聞くと東京都心生まれで育ちと言う。学生時代は弁論部に在籍し、仕事に関しては勿論、遊びに関する話まで理路整然と話をする人だ。
笑うと子供みたいに顔をクシャとする。
学校卒業後、勤めた会社の現地支店で同じ部署だった。半年ぐらい一緒に過ごした。
今から数十年も前の事だ。

20歳台後半、大阪赴任に際し二冊の本(道は開ける/人を動かす デール・カーネギー著)を餞別に頂いた。
会社にとっても初めての営業支店の進出だった、自分にとっても経験の無い土地だっただけに戸惑いも多かった時、この本は幾つもの指針を与えてくれた事を今でも生々しく覚えている。

お互い独立後は同業界に身を置いて切磋琢磨し意見交換をする事も度々だった。 
一方今年13年目を迎えている、同業種が50社集まったビジネス情報交換を目的とする任意団体の運営では、私が代表幹事で彼が役員として10年もの長い間、奔走し仲間達に貢献できたと自負している。
また高齢者関連のNPOの立ち上げでは、彼に理事長に就いて頂き、私は事務局長の立場でお互いに忙しく夢を追った。
この間にも共通の趣味である魚釣りでは機会を創っては方々に一緒に釣行した。
彼の魚釣りに関する知識と経験と情熱はまさにプロ並だといつも感心していた。魚釣りの話になると私はいつも聞き役だ。
私を決定的に海好きにしてくれたのも、彼の魚釣りに関する言葉の一つひとつだった。

私は仕事も中締めをして海側生活を楽しんでいるが、彼は生涯現役を続けると都心に事務所を構え、今でも主に長年の顧客からの相談案件を取り扱うコンサルタントとして仕事を楽しんでいる。   
彼は3人の孫達の話になると、従来にも増して顔をクシャとし、最近は目までが無くなってしまう。

二人の共通のささやかな夢は、これからも工夫と努力で“釣れた”ではなく“釣った”と言う感覚を味わえる釣りをやる事だ。