海側生活

「今さら」ではなく「今から」

自分は自分!

2018年11月28日 | 感じるまま

(本覚寺/鎌倉)
「年寄りはこんなもの」という思い込みが人にはある。

実際には高齢者と言っても様々な趣味や価値観、それに現役時代の職業や出身地も違う。
それなのに「高齢者はこんなモノを好むだろう」と周囲が勝手に考えてしまう事も多い。例えば、先日、知人の母が入所している老人ホームに同行した時、昭和時代の「青い山脈」や「故郷」などの音楽が流れていた。知人が言うには母が好んで聴いていたのはSMAPの曲だったそうだ。しかしそんなジャンルの比較的新しい曲が聞こえてくることは全くないらしい。
自分は昭和の女性歌手の歌謡曲やクラシック音楽好きで、フォークソングもアイドルの歌なども全く聴いていなかったから、もし将来老人施設に入って、このような音楽ばかりを聴かされると思うと今から苦痛でならない。しかしもっと高齢化社会が進めば、状況に合わせて社会もそれらの施設も変わっていくだろうと期待したい。

他方、他人に「高齢者はこんなもの」と決めつられること以上に、自分自身でそう思ってしまうのは問題だ。
「自分は年寄りだから派手な格好をするわけにはいかない」とか「年寄りらしい行動をとらねばならない」などと考え、地味で年寄り臭い服装や行動をしてしまいがちだ。
もちろん、そのような行動を好んでしているのであれば何ら問題はない。ところが時たま聞く「私のような歳で、こんなことは見っともない」とか「良い歳なのだから、こんなことをしている場合ではない」と思うことは自分を逆に苦しめる事に繋がるのではないか。

自分についても固定的なイメージを払拭して、他の高齢者に対しても非難などせず、お互いに自由にありたいものだ。

係留されたまま 

2018年11月18日 | 魚釣り・魚

(小坪港/逗子)
ただ一艘の釣り船だけが港に係留されたままになっている。
他の船は夜明けとほぼ同時に出港した。

「改めておはようございます」
毎朝6時過ぎ頃になると船長のマイクを通した張りのある声が、寝起きに緑茶を飲んでいるベランダまでも聞こえてきた。船長は乗船している今日の釣り客に、港から数百メートル沖に出たあたりで、一日の行程と釣り方などを簡単に説明する。

9月下旬で時期は終わったけれど、カツオ狙いの日は説明がやや長くなっていた。カツオは30メートル船下の針先に掛かった瞬間から四方八方に走り回り、他の全員の釣り人の釣り糸を絡めてしまう。そのためヒットした人は大声で「ヒット」と船全体に聞こえるように叫び、他の釣り客は被害を最小限に保つため、釣り糸を急ぎ巻き上げる。一匹釣れるたびに3~4人は仕掛けが使えなくなり、釣るタイミングを外してしまう。カツオ釣りは船全体の共同作業でもある。船長は複雑に絡み合った釣り糸を元に戻す神業で素早い。またある時は、城ケ島の沖合での鯵釣りは錨を下ろしノンビリと釣り糸を垂れる。それでも水深は100mを遥かに超える。潮の流れが速い日はポイントを掴むのが難しい。ある時、持参した大型クーラーが満杯になり、早々に早上がりした日もあった。そんな日は船長は何も言わない、笑顔で船全体を見渡しているだけだ。家で料理しながら釣った数を数えたら100匹を超えていた。又ある日はその近くのポイントで30㎝は超すアマダイを5匹も釣り上げ感激をした日もあった。船長の「そのサイズは最近では珍しく大きいですよ」の一声が嬉しかった記憶が蘇る。
別の日には、港から比較的近い水深10~15mでのシロキス釣りでは錨を下ろし、船長も自分用の釣り竿を持ち出す。隣に座り釣り糸を垂れたまま、この遊漁船以外の別のビジネスの夢も語っていた。短く借り上げた頭髪に、真っ黒に日焼けした顔、船中ではトレードマークの白色の長靴をいつも履いていた。人懐っこい笑顔が周囲を常に和ませていた。

突然の訃報が耳に入ってきた。
別のビジネスで海外出張先のホテルでシャワー中に心筋梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまったと聞いた。

あれから三週間が経った。遺体の運送に手続きに時間がかかったそうだ。

船は港に係留されたままだ。ロープが時折揺れているのが見える。主がいない船も何だか寂しそうだ。

キレイごとだけでは苦痛

2018年11月04日 | 感じるまま

(銭洗弁財天/鎌倉)
高齢者は仙人のような境地で、すっかり何もかも枯れているに違いないと思っている人がいる。

自分もビジネスに夢中だった頃はそう思っていた。しかし自分が高齢者になり、さらに後期高齢者を近くで見るにつけ、これは完璧な誤解だと自信をもって断言できるようになった。

川端康成の「眠れる美女」という名作がある。67歳の老人が、眠った裸の美女と添い寝をする秘密クラブに入会し、何人もの女性とベッドを共にする。老人の若い女体への憧れや亡き母への想いなどが重なり、人間の心理の奥底が描かれているが、エロチックな文体に今でも多くの人が惹かれるに違いない。60歳を過ぎて発表された作品だが、性的な執着が艶めかしく表現されている。同じく「山の音」も、息子の嫁に対する性的執着が描かれている。
谷崎潤一郎の晩年の「鍵」や「瘋癲老人日記」などの老人の性的な欲望を赤裸々に描かれている小説もある。

これらの小説に描かれる老人たちの心理は特殊なものではないと、老人になった自分が強く感じる。欲望を表に出してトラブルにしてはいけないが、仙人のようでないからと言って、恥ずかしいこととは思わない。高齢になっても恋愛にドキドキし、心もトキメク瞬間がある。性的な衝動も覚える。思い切って行動を起こしたくなる気持ちも起こる。酒の力を借りて羽目を外したくもなる。大笑いや大泣きをしたくなる時もある。

綺麗ごとの中に高齢者を押し込めて邪な欲望がまるで存在しないかのようにしてしまうと、誰もが息苦しくなってしまう。
チョット不良で、チョットいやらしくて、チョットだらしない高齢者に見られても良いじゃないか。