海側生活

「今さら」ではなく「今から」

食い意地

2011年11月29日 | 海側生活

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包丁を手にして、そこら辺りの居酒屋のオヤジ並みには料理ができるようになった。

膵臓の一部と十二指腸を切除すると言う手術をして以来、口にする食べ物の種類や味の濃淡の変化がある。
好みが変わったと言うよりも、消化器官が従来の健康体のようには機能してくれない。脂肪分の多い天麩羅やマグロのオオトロなどは食べる瞬間は相変わらず美味いが、翌朝には脂肪分が消化されず小さな塊となって便器の中で遊んでいる。その間、腹の中ではガスが発生し雷のような音が間断なく続く。

自然に脂肪分が少ない白身の魚や野菜が多くなった。
自分は旬のモノを、余り手を加えずに食べるようにしている。そのまま食べれば一番美味いモノを、わざわざ下手な味付けをして不味くする必要はない。

幸い「海側生活」は海の幸は豊富だ。
何とかしたいのは野菜だ。スーパーなどで買い物をしていて思うのは、家庭は流通の末端であると言う事だ。スーパーの棚に並べる段階ですでに数日、経っている古い野菜を、家庭の冷蔵庫でさらに何日か保存し、最後には腐らせる。食料の生産現場から離れた暮らしをしている限り、自分は限りなく生ゴミに近いモノを食べていると言う事になる。

冷蔵庫がなかった時代、人は自分が暮らす周囲の産物しか口に出来なかった。ここの漁師町でも子供のおやつはサザエやアワビしか無かったとも聞いた。
現代は流通も変わり、冷蔵庫の中には多国籍になり、無意識のうちに世界中の肉、魚、野菜を食べているが、かっては食べ物の保存方法は乾燥と塩漬けと発酵だけだった。この過程で旬とか生とは全く異なった食感や匂いなど独特の風味を醸し出した。

今、人は旬や生の美味さを忘れてしまった。
冷蔵庫のない時代に戻りたいとは思わないが、朝採りの瑞々しい野菜を食卓に乗せたいと願う。何か手段はないだろうか。

この食い意地が衰えない限り、人は、また自分もまだ死なない。


思わず武者震い

2011年11月22日 | 感じるまま

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「海側生活」はストレスや緊張とは無縁の時間を過ごしている。

都心に所用があり、早朝、駅に向かうバスに乗った。
バスに乗ると言うのは気持ちが良い。何しろ眼の高さが違う。いつもの歩いている時とは違い、目線がはるかに高い場所から、見慣れた町並みや商店街を眺めたり、颯爽と海岸を走ったり、普段であれば決して見えない思わぬ光景の一コマを見せてくれる。まるで幼い頃に戻ったような錯覚さえ覚える、おまけに安い。

出発地では乗客は三人だった、バス停に止まる度に3人から5人が乗ってくる。やがて五つ目のバス停を出る頃には満席になり、その後、前方部分には立っている人が10人ぐらいになった。
乗ってくる人は皆、無口で一人だ。乗り口でICカードをタッチして乗り込む、動作が素早い。バスも普段よりスピードが出ているような気がする。降りる人は誰もいない。
車内は静かだ。乗客同士の会話は全く無い。新聞を四つにたたみ読んでいる人、イヤホーンに聞き入り目を瞑っている人、ケイタイを見ている人、ただ窓の外を見るとはなしに眺めている人など。車内案内は次の停留所名を告げる録音された女性の声が流れるだけだ。日中なら「座ってください」、「右に曲がります」とか「停留所にバスが止まるまで席を立たないで下さい」と放送があるのに。

やがて日中と雰囲気が違うと感じた単純な訳に気が付いた。この早朝のバスには高齢者が乗っていないのだ。ビジネス人生の現役だけがこの時間、今日も駅に向かっている。一切の個人的な事情が考慮されない実力主義と言うシステムが待つ会社へ向かっている。 途端にどこからとなく電話の鳴り響く音やパソコンのキーを叩く音が聞こえてくる。

自分の現役時代を思い出し、思わず武者震いした。久し振りに全神経がパチパチと動き出した。

駅に着くまでの10分間だった。


三立てのソバ

2011年11月18日 | 海側生活

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「そば打ち昇段試験で2段を取りました」と、一通のメールが来た。

「ソバ打ち」と言うとメダカの飼育、おやじバンド、土いじり、俳句の会など、団塊世代の五大趣味とも言われて久しいが、現役を最近、退いたN,Aさんが「ソバ打ち」に熱中しているとは知らなかった。      

しかし自分とは違う趣味を持つ人との会話は楽しみだし、またメールに書き添えてあった「打ち立て、茹で立てのソバはやっぱり美味しいですよ。特に日本酒を飲んだ後のソバとソバ湯は最高です」の言葉に引かれた

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彼は奥さんと共に、ソバ打ち道具一式を持参し、ソバ粉は信州の新ソバらしい。自分は酒の肴に旬の魚々の刺身と、ソバ用に生ワサビを用意して待った。
やがてソバ打ちが始まった。顔つきが、今まで仕事の打ち合わせ中でも見せた事がないような真剣さだ。鋭い目つきが指先に集中している。粉を混ぜ始めた頃、仄かにソバの香りが漂って来た。時々奥さんが何やら声を掛けている。自分には意味が分らない。夫婦だけに通じる会話らしい。

彼は高校生時代、小学生の家庭教師をしていた。その時、一人の美少女に出会った。その後、大学へと、さらに社会に出てからも家族共々付き合いは続き、美少女が成人した時に結婚した今の奥さんだ。

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水を加えたら徐々にそば粉が薄い緑色に変わってゆく。練って、揉んで、延ばす。この延ばす作業にも思わず見入ってしまう。丸く延びた一枚のソバを、棒一本で四角に延ばしていく。そして畳み、切る。その時、今日のソバ打ちの出来映えを称えるかの様に、海からの反射の夕陽が包丁に一瞬光った。

友人と共に食した新ソバの挽き立て、打ち立て、茹で立ては、お代わりをしたくなるほど口の中で踊っていた。
機会をつくり近い内にまた彼にソバを打って欲しい。

しかし彼が二段になるまで、ソバばかり食べさせられた家族は迷惑だったに違いない。


2011年11月14日 | 感じるまま

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「渋」と言う言葉はあるけれど実物は見た事はなかった。聞けば、青い柿の実を石臼で潰し、発酵させ、それを布で漉して液状の液を採るのだそうだ。
お腹をいつも空かしていた少年の頃は、家の裏山に入り、自生している柿を採り頬張った。甘柿でも未熟だと瞬間に何とも例えようがない「渋」が口の中に広がり、いくら口に入れたものを吐き出しても、舌に付いた「渋」はなかなか取れなかった。

「渋」は、日本では古くから紙や布を湿気などから守るために使われたようだが、自分は釣り糸の強度を増すために昔は塗っていたとか、団扇や傘しか思い出せない。現在はシックハウス症候を起こさない塗料として利用されていると言う。

渋い男、渋い色、渋味のある、と言うと褒め言葉になる。
渋味とはワビやサビとも違うし、控えめな日本古来の美徳とも一味違うような気がする。
「渋い」には、ちょっとした痩せ我慢がある。渋味を出すにも、それを味わうにも自然体だけではない、隠された意思のような、ちょっと無理をしてでも姿勢を正しく保とうとする心掛けみたいなものが感じられる。

痩せ我慢も無理もせずに、あるがままの本心をさらけ出して生きている限り、渋味は出てこない。本能や欲望を引っ込めて何食わぬ顔を決め込む大人の度量が要る。度量を支えるのは体力と気力だから、人間歳を取れば渋味が出てくると言うものでもない。「渋い」と「枯れた」とは別物で、枯れてしまっては渋く決める事なんか出来ない。

繰り返し自己主張し、自分の考えを相手に理解させようとするのではなく、その場では誤解の苦しみや無理解の悲しみに耐え、「まぁいいさ、いつか分って呉れるだろう、分って呉れなければそれでも仕方がない」と身を引く。しかし、無駄かも知れない小さな言葉を相手の胸に残しておく。
長い誤解があって、その間言い訳もなされない、ふとしたことから真実が分った時、人は何倍も衝撃を受け、相手への感謝の念を募らせる。
時間に耐える。これも「渋」のもつ力である。

渋を塗った日用品が消えてしまったように「渋味」もどこかに消えてしまったようだ。


全力を込める

2011年11月07日 | 魚釣り・魚

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やっと秋らしくなったのか、早朝の港に吹き込む風が思わず身震いさせた。

海水温度が例年より高く、思うようには獲れないと日頃から愚痴ってた“せいちゃん”の顔に今日は笑みが浮かんでいる。
浜に引き上げられた舟に積まれた網から、掛かった魚を手際良く一匹づつ外す手先を見ていると、実に様々な魚がいる。まるで小さな水族館だ。

“せいちゃん”の今日の本命はカサゴだ。
本命の他にメバルもいる、コハダやメジナも混じっている。中には歓迎されない魚もいる。体長50cmぐらいの可愛いサメやアンコウに似たシビレ、この生き物は素手で触ると手首あたりまで電流が走るそうだ。
網に掛かっているのは魚だけではない。サザエの空殻や海草の屑も無数に絡まっている。ヒトデもいる。

思わず目を見張る魚が顔を覗かせた。カトッポだ。オチョボ口で愛嬌のある目が自分を見ている。
この浜でも“達人”は器用に調理するが、自分は出来ない。身は無毒だが体表から毒を出す。やはり下手な調理は危ない。
故郷に近い長崎・五島でこの料理を食べた事がある。このハコフグは全身を硬い甲羅に包まれ、形は箱状になっている。釣りでは滅多にお目にかかることは無い。
しかし食べると最高に美味い。焼いて腹部の甲羅を外して、味噌とミリンと合わせたものを腹に詰めて焼く。繊維質の身は味噌と良く絡む。一緒に葱や生姜も合えると又一段と美味くなる。又刺身にしても透明感のある白身は甘味が強く美味い。

カサゴも箱にイッパイになった。

自分は魚の顔を見るのが好きだ。いつでもビックリしたように、全力を込めた目でモノを見る。魚の顔ほど真面目で真剣なものは、他には見られない。