海側生活

「今さら」ではなく「今から」

東海道五十三次 

2011年04月26日 | 東海道五十三次を歩く

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やり残した事がある。
それは忘れ物に気がつきながら、長い間ズルズルと今日まで放置したまま過ごしてきたような思いがしている。

かなり前になるが、自分のそれまでの仕事の関係で知人も多く居る海外に幼い息子と度々旅行した。旅行の回数が増す毎に、やがて息子との接し方に疑問を持つようになった。息子は日本国内も又日本の事も満足に知らないのに、折角の自分との時間を海外で過ごして良いのか、もっと自分の国・日本と言うものを教え、そのための時間を共有すべきではとないかと考えた。

そして息子が10歳の夏休みに実行に移した。
東京・日本橋から京都・三条大橋まで約500km、53の宿場を持つ街道・東海道五十三次を自転車で走る事を。
自分も息子も長距離を自転車で走る事は経験が無かった。日本橋から200kmの掛川の宿で息子は39度の風邪熱で朝食も殆ど喉を通らなかった。病院で息子は言った「一日だけ休ませて」と。最後まで走り抜きたいと言う息子の意思が強く伝わってきたが、今回はここまでと断念した。
短い一週間だったが、共通の体験を通じて、息子の様々な考え方が改めて理解できた貴重な体験だった。

今まで計画を立て、実行に移し、目的とした結果が出ようと出るまいと最後まで行ってきた。それはビジネスでも遊びでもそうだった。これまで自分はそんな生き方を生活信条としてきた。

それ以来、長い間、頭の片隅に忘れ物としてその事が残っていた。
今、残りの掛川から京都・三条大橋までの区間を走りきろう、しかし今度は自転車ではなく歩いて行く計画を立てた。

歩く意味は特別には無い。ただやり残した事を済ませたいだけだ。サラリーマンの息子に話すと「時間が有る限り同行させて貰う」と快諾。息子は空いた休みの日だけ新幹線で来て、一日か二日だけでも自分に合流すれば良い。

掛川から京都・三条大橋まで27宿場、距離約300km、予定日数は不明。体力は自信が無い。それぞれの土地の美味いものを食べ、史跡を訪ね、写真を撮り、温泉に入りと道草を食いながらのんびりと歩く積もりだ。出発日は5月10日と決めた。

京都・三条大橋に着いた時、自分は何を思うだろう。何が待っているのだろう。自分の心境にどんな変化が起こるのだろうか。

※一緒に歩きませんか。一日だけでも、貴方のお気に入りの宿場町を--。


我がまま法則

2011年04月22日 | 感じるまま

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この海側生活を始めるキッカケとなった膵臓の腫瘍も、手術後五年目を迎え、今は影も綺麗に消えてしまった。
一度はその時を覚悟したのに、今日も又こうして楽しく生きているなんて、何と言う奇跡、何と言う恩恵と考えると、何もかも有り難くて楽しくて恐ろしいものが何一つ無くなった。

そこで最近は「お・ち・あ・い法則」と言う我がままな法則を作って信条にしている。
(お) 「美味しいものだけを食べたい」
これが人生最後の一食かも知れないと考えたら、グループで同じものを食べなければならないと言った会食は絶対避けたいし、義理飯は食べたくない。出来ることなら食材の出所も、作り手の顔も見えるところで、心底美味しい、有り難いと思って食べられたら嬉しい。その場所に友との語らいと一杯の美味い酒があれば尚言うことはない。

(ち) 「直感的に判断したい」
何事も理性によらず瞬間にココロで判断したい。これまで様々の経験をして来た。美味しいものも分かっている、会いたくない人には会わないし、行きたくない所には行かない。全てを選ばせて貰いたい。

(あ) 「会いたい人に会いたい」
会たいと願っても相手のある事だから、勝手に押しかけて行く訳にはいかない。先方も喜んで迎えて頂くと言う状況を作ろうとすると、かなりの努力と時間と目的意識を必要とする。これはこれまでの仕事関係者ではなく、遠い憧れの人だったり、心の師だったりする。

(い) 「行きたい所に行きたい」
ただの観光旅行なら、お金と時間と工面すれば行けるけど、それだけではつまらない。今生で行きそびれた所に行っておきたい。
そして「そうだったのか」と納得したい。

これまで自分のやりたい事、好きな事を追い求めて来た先に、こんなに気持ちが落ち着く時が待っていたとは、誰に又何に感謝したらよいのだろう。
この上は、さらに森羅万象に好奇心を全開にして「お・ち・あ・い法則」を楽しみたい。


大きなお世話

2011年04月18日 | ちょっと一言

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思わず目を見張った。
満開の桜を見た後だったから余計に感じたのか、自分の背の高さの二倍はありそうなその木は、思いっきり横にも広く羽を伸ばしかのように木全体が淡紅色の花の塊だった。近寄って観ると垂れ下がった枝という枝にピンクの小花をびっしりと付けている。

鎌倉・長谷の光則寺の海棠(カイドウ)は樹齢200年、根元の周囲は1mという大樹で鎌倉市天然記念物に指定されていると言う。
本の名前は忘れたが、唐の玄宗皇帝が楊貴妃のほろ酔い眠たげな姿をこの花に喩える場面があったのを思い出す。確かに咲き初めの海棠はうつむき気味で、いかにも柔弱な美女の趣を感じる。

あまりの可憐さに、木の周囲に大きく施された柵を回り眺めていたらこの海棠は奇妙な形をしていた。根元から、まるで裂かれたように大きく二つに分かれている。そして別れた幹をくっ付けるかのように、その間にはまだ乾ききっていないコンクリートのような色をした詰め物が樹木医によって施されている。少し離れて改めてこの老樹を眺めてみると、鎌倉随一との評判だけあって樹木の大きさと言い、咲きっぷりの見事さは観る者を唸らせてくれる。しかし四方に伸びた太枝は支柱で支えられ、さらに別の支柱の上には、竹で編んだ大きな傘みたいなものがあり細かな枝々を支えている。

この海棠が芽生えたのは約200年前。幼樹は様々な好条件に恵まれ成長し、若木となり、大木となった。その間、山の獣達に芽や樹皮を食われて枯れる事も無く、台風や強風に倒されることも無く、長い年月を生きてきた。
老樹になると幹や枝に空洞が出来、そこの雨水が溜まり木質を腐らせもする。虫達が住み付き内部を食い荒らしもする。弱った枝は強風にもぎ取られもするだろう。しかしそれが老年の姿だ。天然記念物に指定されなかったらこの海棠は、老年を暫くは生き、やがて崩れていくはずだった。枯死した老樹には近くの小鳥達が巣を掛け、そして倒れた老樹に苔が付き、そこに落ちた種子が芽を出し育って行く事だろう。老樹は次第に土に還って行く。それで良いような気がする。
延命治療を受け、奇妙な形をした老樹はこれでも木なのだろうか。

海棠はもう十分生きたのではないか。延命を望んだのは海棠ではなく人間だ。

老樹に成り代わって“大きなお世話だ”と呟いてみた。


最大の財産

2011年04月12日 | 最大の財産

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K,Kさんは多くを喋らない。、
彼はいつも自分の感覚しか語らないが、決して嘘は吐かないし、何よりも自分の感覚を正確に表現することに気をつけているから、その言葉は常に的を得た言葉を相手に届ける。    

大手生命保険会社の役員を退任後は悠々自適の生活を送っている。
それまでは15回も転勤を経験し、常に家族で同行した奥さんや子供達も慌しかっただろうし貴重な経験もした事だと思う。
モノに動じない太っ腹の奥さん、今でも40歳台にしか見えない顔や眼の輝きや、娘のようなコロコロの声は健在で周りの皆が救われている。

自分とは10代の多感な時期に中学校・高校であらゆる事に熱中した時間を共有した。 
自分はバスケットボールに、彼は陸上競技を続け、三段跳びでは九州高校生記録を更新した、言わばスターだった。
ある時期の早朝、100段の神社の階段を5往復するトレーニングに汗を流した記憶も懐かしい。休日には彼の自宅で長い時間、レコードに耳を傾け卒業後の進路や夢等を語り合った。自分の家には歌謡曲や童謡しかレコードは無かったが、彼の家にはビリボーンやグレンミラー等のオーケストラ曲が、又ニール・セダカやポール・アンカ等のレコードがケース一杯に並べられていて、ある種のカルチャーショックを覚えた事もあった。

彼は大阪の大学へ進学し、自分は東京の大学へとそこからあらゆる進路や環境が変わったが、互いの連絡が途絶えることは無かった。

社会に出てからも転勤先が三度も一緒になった。ある時、悩んだ恋愛問題では彼と奥さんから小言も頂いたが、大きな勇気も与えて貰った事もある。また名古屋では一足先に転勤していた彼に、ハイクラスの和食処や飲み屋さんを紹介して貰い、ビジネス面でも大いに役に立たせて貰った。思い出を書き連ねたらキリが無いが、ビジネスのキャリアと年輪を積む毎にそれなりの社会人として、企業人として、又男として折りに触れ様々な体験も共有した。

今、高校の同期会を彼が代表で、15年間続けているが、彼が代表だからと多くの同期生が参集し、皆が会う事を毎年楽しみにしている。

お互いに厳しい人生の年利を重ねるにつけて、無言でそれが理解できる掛け替えの無い友となった。
近い内に、この海側で自分の手料理でワインを傾けながら、ニール・セダカやポール・アンカを聞くのを楽しみにしている。
彼と出合った事は人生で最大の財産だ。

お互いの希望は孫と言うものに早くお目にかかりたいと思っているが、いつになるやら思うようには行かない。


私鉄沿線

2011年04月05日 | 感じるまま

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私鉄沿線と言う言葉が何となく好きだ。
私生活、私事と言う言葉同様に、どこと無く秘め事めいた艶やかで柔らかいイメージがある。それにオシャレである。トレンディでもある。
また駅の近くにはセンスの良いカフェがあり、ファッションの専門店もあり、その沿線ならではの落ち着ける飲食店が夜も昼もあり、都心とは違った華やかさがある、と思っていた。

久し振りに横浜から県央に向かって走っている電車に乗った。
座って二駅過ぎる頃、何かが違う事に気が付いた。いつもとは違って電車内には“色”が少なく、何となく寂しい雰囲気だ。車内を眺め回す内に分かった。人も少ないが電車内の広告が少ない。スペースの全体の三分の一ぐらいは空いたままだ。
世相を映しているのか、消費者ローン・雑誌・予備校等の広告が目に付き、従来は必ずあった不動産の広告が殆ど無い。目的駅に着いて、ホーム周辺の駅看板を見渡すと、まるで歯が抜けたように半分ぐらいしか埋まっていない。目立つのは医院・病院の看板ばかりだ。空いてるスペースには大きな風景画が貼られ、その上に“募集中”の文字が鮮やかに目に飛び込んでくる。たまに不動産広告があれば、電車内も駅ホームでも系列不動産会社の言わば身内広告だけだ。

調べてみると昨年度の日本の総広告費は10%以上も減少し、過去最も大きい減少率だったようだ。
 
駅からの商店街を抜けて歩いた。この商店街は銀座通りと名付けられている。人の流れも少ない、目に付くのは高齢者の姿ばかりだ。
100メートルぐらいの銀座通りは四軒に一軒位の割合でシャッターが閉まっている。

しかし様々な分野で明るい兆しも見え始めたと聞こえてくる。元気を出して欲しいのは、地域密着型の自営業者だ。あらゆるモノが大きく変わった。その変わり方のスピードも速かった、これからもっと速くなるだろう。変化の時は最大のチャンスでもある。

私鉄沿線への自分の思いは過去への感傷か。
歌のタイトルや歌詞にも良く似合うし、生活の匂いがする言葉である。こう思うのは自分の感情に生活の情緒が、私鉄沿線で最初に形づくられたからだろう。