(ある日の風景/材木座海岸)
家に一つしかなかった柱時計をバラバラに分解し、元に戻せなくなって怒られたことが度々ある。
我ら高齢者の少年時代には、そういう事が良くあったものだ。オモチャから始まりラジオ、時計、蓄音機など様々な電気製品を中がどうなっているのかと、強烈な好奇心を払い難く、親に隠れドライバー片手に分解した。遊び仲間の中には機械だけに飽き足らず蛙や蛇などの生き物まで分解した者までいた。今思えば、あれは知識欲に駆られた少年期の成長の証ではなかったか。
しかし分解少年って最近は殆ど聞かない。
ケイタイやスマホを分解してみたと言う子供の話はきかないし、ゲーム機、テレビ、DVDデッキ、パソコンの類を分解して中を確かめたと言う子供に会ったことが無い。
何かが違う、何か寂しい。
知人に言わせれば、現代は分解してもICチップとかの分解不可能な部品にすぐ到達し、いわゆる“動くモノ“が見当たらないので、分解しても全く面白みが無いのだと言う。果たしてそれだけで済ませて良いものか。
自身を振り返っても、鉄の塊である飛行機が空を飛ぶ不思議も感じなくなってしまっているし、また遠くの映像が眼の前に出現する不可解、しかもスマホの小さな画面にまでそれが現れる大魔術をなんの抵抗もなく受け入れてしまっている。本来なら「何故?」と驚き、その裏側をつぶさに観察してみようと言う当たり前の衝動が全く湧かない。多分科学の圧倒的な力に最初から降参し、抗っても無理だと敗北感の中で最初から諦めてしまっている。
科学も芸術もビックリすることから始まり、「何故?」に繋がって進展すると、ノーベル受賞者が話していたのを覚えている。現代は「何故?」の壁が余りにも高く、素人や子供には手も足も出ない。まして少年たちは分解することを最初から諦める。
その諦めは良いことなのか、悪いことなのか。自分にはそれすら答えが出せない。
ただそこまでの高みに進んでしまったと感じる科学は、実は人心から離れてしまっているのでないか、また自分もと寂しい気持ちだけが残る。