海側生活

「今さら」ではなく「今から」

何故?

2016年04月23日 | 感じるまま

  (ある日の風景/材木座海岸)
家に一つしかなかった柱時計をバラバラに分解し、元に戻せなくなって怒られたことが度々ある。

我ら高齢者の少年時代には、そういう事が良くあったものだ。オモチャから始まりラジオ、時計、蓄音機など様々な電気製品を中がどうなっているのかと、強烈な好奇心を払い難く、親に隠れドライバー片手に分解した。遊び仲間の中には機械だけに飽き足らず蛙や蛇などの生き物まで分解した者までいた。今思えば、あれは知識欲に駆られた少年期の成長の証ではなかったか。

しかし分解少年って最近は殆ど聞かない。
ケイタイやスマホを分解してみたと言う子供の話はきかないし、ゲーム機、テレビ、DVDデッキ、パソコンの類を分解して中を確かめたと言う子供に会ったことが無い。

何かが違う、何か寂しい。
知人に言わせれば、現代は分解してもICチップとかの分解不可能な部品にすぐ到達し、いわゆる“動くモノ“が見当たらないので、分解しても全く面白みが無いのだと言う。果たしてそれだけで済ませて良いものか。

自身を振り返っても、鉄の塊である飛行機が空を飛ぶ不思議も感じなくなってしまっているし、また遠くの映像が眼の前に出現する不可解、しかもスマホの小さな画面にまでそれが現れる大魔術をなんの抵抗もなく受け入れてしまっている。本来なら「何故?」と驚き、その裏側をつぶさに観察してみようと言う当たり前の衝動が全く湧かない。多分科学の圧倒的な力に最初から降参し、抗っても無理だと敗北感の中で最初から諦めてしまっている。

科学も芸術もビックリすることから始まり、「何故?」に繋がって進展すると、ノーベル受賞者が話していたのを覚えている。現代は「何故?」の壁が余りにも高く、素人や子供には手も足も出ない。まして少年たちは分解することを最初から諦める。

その諦めは良いことなのか、悪いことなのか。自分にはそれすら答えが出せない。
ただそこまでの高みに進んでしまったと感じる科学は、実は人心から離れてしまっているのでないか、また自分もと寂しい気持ちだけが残る。

どうぞ別の惑星へ

2016年04月12日 | ちょっと一言

(葛原岡神社/鎌倉)
それを学識経験者と言うのか知らないけど、最近偉いと言われる人は、会話の中にやたら横文字を使いたがる。

土地の人達が軽く呑むカウンターだけの、七人も座れば肩が触れ合うほどの小さな居酒屋で、他所から初めて来たと思われる一人の男が、時々は相槌を打つ店主に自分だけが一方的に喋っている。話の内容は否が応でも耳に入って来る。
話の中にやたら横文字の言葉が多い。最初は、どんな職業だろうかと興味を持った。話の内容から自分は時事に疎くなってしまったのかと不安になり、その内に話に一貫性が無いぞと気が付き、やがてその言葉の意味が分からなくなり、どうか日本語で喋ってくれと言いたくなった。

その男は日本語で言えば言えるくせに、わざと横文字を使う事で自分を偉そうに見せたがっていると言うのが、出した結論だ。

勿論、横文字でしか表現が出来ないものや既に一般名詞化してしまった言葉も数は多い。しかし初めて聞くような外来語を、さも得意げに乱発する輩は、ハッキリ言って嫌いだ。又そんな輩に限って、最近の女学生の流行りの言葉を会話に挿入して得意になっている。
よほど「花のチューリップを日本語で言って!」って言いたくなったが言葉を飲み込んだ。こういう国語破壊者からは日本国籍を剥奪すべきである

またその男がどこに住んでいるか知らないが、自分と同じ地球に住んでいるのなら、お願いだから別の惑星に移って自分の言葉を思う存分に使って欲しい。

正しい日本語を喋り合えて初めて、我らは日本人として通じ合える。