海側生活

「今さら」ではなく「今から」

ヒッソリ生きる

2017年05月29日 | 鎌倉散策

(イワガラミ/東慶寺)
豊臣家最後の姫・天秀尼(てんしゅうに)は日本の女性史の中でも、あまりその名を知られていない女性の一人だろう。

彼女の父は豊臣秀頼で祖父は豊臣秀吉だ。祖母は淀君(茶々)で曾祖母は織田信長の妹・お市だ。しかしお市や淀君が有名なのに比べて、彼女の存在は殆ど知られていない。それどころか豊臣秀頼に子供がいたのかと不思議な顔をする人が多いくらいだ。
彼女は記録からしても紛れもなく秀頼の娘である。但し母は正室の千姫(父は徳川二代将軍・秀忠、母は淀君の妹・お江)ではない。千姫と秀忠との間には一人の子供も生まれなかった。彼女の母は秀頼の側室だが、その名前などはハッキリしない。又彼女の幼名でさえ文献には全く出てこない。

彼女は歴史の中で長く忘れられていた。日本で最も有名な家系に属し、歴史上の大事件の中で数奇な運命を辿っている。その個人生活もドラマチックだが、自身の生涯が終わった後も、尚、女性史の上で大きな意味を持ち続ける存在となった。

もし彼女が千姫を母として生まれたのならば、例え女児であろうと天下を上げての大騒ぎをしたに違いない。あいにく彼女は側室腹だった。誰からも注目されず、ヒッソリと生きねばならぬ宿命は、早くも誕生のその時点から、彼女に付きまとい始めていたのかもしれない。
大阪冬の陣での大阪城落城の時、彼女は六歳だった。この時、父・秀頼と祖母・淀君は落城の炎の中でその生涯を終える。
落城の火から逃れた彼女たちは捉われた。結果として兄は斬首され、彼女は千姫が養女にすることで助命され、家康の意向にて七歳で剃髪し尼寺・東慶寺に入った。やがて、二十世住職に就く。

三十七歳の生涯を終えるまでの東慶寺での生活ぶりは記録が乏しいと言う。

お市や淀君に比べれば、現世から隔離されたその生涯は華やかさに欠けた味気ないものに映る。しかし祖母や曾祖母がやらなかったことを一つだけ行った。お市は実家の織田家のために生きた。淀君は我が子・秀頼の出世に全てを賭けた。ひたすらな生き方には共感させるものもあるが、しかしそれらは全て自分の子や、身内に対する利己的な献身である。
しかし肉親を持つことを許されない生涯を強いられた天秀尼は、後に幕府公認の駆け込み寺として女人救済の実を結んだ。縁切り寺法は離婚を望み東慶寺に駆け込んだ延べ2000人の女性の思いを成就させたと言う。

お墓がある東慶寺には今、「忠実」の花言葉を持つイワガラミが本堂の裏側の湿った日陰の石垣の全体に無数の、しかもひっそりと白い花を咲かせ始めた。株は一本だと言う。


気分を変えて

2017年05月11日 | 感じるまま

(明月院/鎌倉)
季節の変わり目が街を行く人の装いでも分かる時期になった。
とっくに陽の光や風の香りが違ってきているのを感じてはいた。

最近は歳を重ねていささか無精になったのか、季節への感度が若者に後れを取るようになったのか、街を歩いていて季節にズレているのを感じることがある。若い頃は過ぎた季節を脱ぎ捨てる一種の快感もあったのに。

このことを(日常)人生の四季に当てはめたくなる。
春には春の装いがあるように、季節ごとに装い方が有るだろう。しかし、いつまでも若者ぶってオジさん・オバさんになれない。またいつまでもオジさん・オバさんを気取ってオジィさん・オバァさんになれないのは、人生の季節にズレているのではないか。それなら迷わずオシャレなオジさん・オバさんやオシャレなオジィさん・オバァさんになってしまった方が良いのではないか。

オシャレとは何よりその時代の風に華やぐことだ。若者は自然に時代の真ん中に居るものだが、歳を重ねると時代への感度が鈍くなりやすいのか。若さを保っている積りで、実は自分の「本当に若かった時代」を引きずっているだけかもしれないのが怖い。若いのは良いことだが、それは今の時代の若さでないとつまらない。うっかりすると、若さへの未練とか、時代の匂いを嗅ぐことに無精になっているだけかもしれない。

もっとも何が何でも街の装いに身を合わせる必要もない。
夏に雨模様で冷える時なら、躊躇わずにもう一枚羽織るのも、季節に逆らっているようで、かえって粋で無くも無い。皆が白い装いの中で逆に黒っぽくしてしまう手もある。

だから老人だから老人らしく生きねばならない、などとは思わない。若者だって時にはシットリとした生き方も良いものだ。問題は無理するから良くないのだ。そして無精だったり鈍感でもやはり良くない。

着るものを変え気分も変えてみようとか、今日はチョット若者してみようとか、今日はシットリとオジィさん・オバァさんしてみようなどと、日毎に生き方の気分を変えてみるのも悪くない。こんなことも歳を重ねると無精になりかねないが、無理に若ぶることに精を出すよりも、案外こちらの方が若さにつながるのでなないか。

老いを恐れないのが若さと言う事だから、多分。


伝説も創った義経

2017年05月05日 | 鎌倉散策

「さんさ踊り」/腰越・鎌倉
「義経まつり」に初めて足を運んだ、先月の中旬の晴れた日。鎌倉・腰越での言わずと知れた源義経の慰霊法要だ。

既に過去58年も続いているそうだ。会場は、平家を壇ノ浦で滅亡させ鎌倉に凱旋しようとした義経が異母兄・頼朝の不興を解くために、止め置かれた腰越の満福寺。異心は無く許しを請う、世に言う「腰越状」を認めたお寺だ。腰越状の全文は『吾妻鏡』に収録され何度も読んでいるが、弁慶筆と伝えるものが寺内にある。
尚、満福寺の寺紋は笹竜胆で、源氏ゆかりの寺であるということを示している。本堂内には鎌倉彫の技法を取り入れた漆画で表と裏側の三十二面の襖絵がある。物語で有名な義経、静御前、弁慶にまつわる名場面が彩も鮮やかに描かれ、一枚ずつ観ていくうちに、忘れかけていた幼い時の記憶が蘇ってくる。

義経は幼名を牛若丸と呼ばれた。
まだ乳飲み子だった時、平治の乱で父と死別する。その後、僧として生きよと諭され預けられた鞍馬山での修業、弁慶との出会い、平家との一ノ谷、屋島、壇ノ浦などの合戦での大活躍。そして兄・頼朝が居る鎌倉への凱旋。しかし頼朝は鎌倉入りを許さなかった。
義経が頼朝の怒りを買った原因は、『吾妻鏡』によると、まだ官位を与えることが出来る地位にない頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。 また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失したことは頼朝の戦後構想を破壊するものであったとされている。
懸命の「腰越状」は功を奏さず、そして京都に引き返した後も、兄が差し向けた追っ手からの平泉までの苦難の逃避行地での愛妾・静との別れ、弁慶との主従の絆などエピソードの数々が思い出される。これらは後に創作された物語とは言え、幼心に強烈な印象が刷り込まれている。 

山伏姿に身をやつした義経が平泉への途中だった頃、吉野で捕えられた静は、鎌倉に送られ、そこで義経の子を出産した。しかし男子だったため殺害された。当時の武家社会での習いとは言え、現代に生きている者にとって、やりきれない気持ちだけが残ってしまう。
奥州の藤原秀衡を頼った義経だったが、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であったと言う。

頼朝は義経や藤原氏の怨念を鎮めるために鎌倉に中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して永福寺(ようふくじ)を建立した。焼失して無くなったが、跡地の発掘調査もほぼ終わった。これから行政は復元するのか?出来るのか?

静の記念碑や墓と言われている所は、北海道から福岡まで十数か所にも及ぶ。
弁慶の墓と言い伝えられている塚が神奈川県/藤沢や平塚にある。又「弁慶まつり」が出身地とされる和歌山県田辺市で毎年行われている。
義経は、後に悲劇の武将の薄幸のイ メージを形成され、ついには「判官贔屓」という特有の心理まで醸成された。また平泉/衣川では死んでいない、北海道から大陸に渡りジンギスカンに身を変えたと言う創作物まで登場した。

「義経まつり」では、江ノ電と並行している大通りを、当時の武士装束を付けた甲冑隊ほか、地元の小・中・高校の吹奏部が賑やかに行進した。中でも目を引いたのは「さんさ踊り」だ。
岩手県・平泉から参加した高校生グループが、響き渡る太鼓の音に合わせ軽快な掛け声にのせにこやかに舞っていた。

頼朝は歴史を創った、義経は伝説を創った。