海側生活

「今さら」ではなく「今から」

空白の日

2010年04月26日 | 感じるまま

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予定がないと不安になると言う人がいる。先日、自分の行きつけの喫茶店で見かけた女性がそうだった

彼女はバッグから黒革の手帳を取り出して、あるページを開き、暫くの間眺めていた。そして突然、携帯電話で友達に電話をかけ始め、食事や飲み会や買い物の約束を取り付けては、次から次へと手帳に予定を書き込んでいった。

電話を止め、又手帳に見入る。どうしても予定の決まらない一日があるようだ。

ポッカリと空いた一日、来週の水曜日らしい。その空白が彼女には耐え難いものだったらしい。とうとう彼女は行きつけの歯科医院に電話をかけ、この前の治療が今一つ、シックリとしないのでもう一度治療して欲しい、ついては自分は来週の水曜日しか時間が空いていない、何時でも構わないから予約を欲しい、と主張し、とうとう水曜日の予定を手に入れた。

彼女は隙間なく埋められたのであろうページを見詰め満足そうに微笑んだ。

そして冷めてしまったコーヒーを手に取ると一気に飲み干し、バッグを肩に掛け出口に向った。

現代の若者はスケジュール依存症だし、空白恐怖症のようなものだと思う。

手帳が空白になっているのが怖い。予定がないと不安で仕方がない。だから若者達は探してでも予定を入れたがる。

また明日は何をするのかと尋ねられて、こんなに予定が詰まっていると答えるのが格好が良い、と言う価値観もあるのだろう。

酒飲みに休肝日が要るように、若者にも全く予定のない日が必要だと思う。わざと週に二日ぐらいは空白にする。手帳は真っ白、あえて何も予定は入れない。空白の日は、思いついた何かをやっても良いし、ただ何もしないでボーとするのも良し。

もっとも中高年のオジサン達こそ、何もしないボーとできる時間が必要ではないかとも思うが。

自分は今「何をするか」から「何をしないか」と、考え方を変えた。

そうしたら本気でやりたい事、また、やらねばならない事が見えてくる。


余情残心

2010年04月16日 | 鎌倉散策

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いつも道すがら眺めている寺の庭なのに、利休梅が咲いているのに気が付かなかった。
毎年、ソメイヨシノが散るか散らないかの頃合いに美しく開花していた。花言葉の「気品、控えめな美」にピッタリの花だといつも感じていた。

桜に似た純白の花は花心が黄緑色で、鈴のような丸い蕾が連なり、とても愛らしく清々しい風情だ。

ふと眼が合った住職の奥さんに聞いた。
名前に梅と付くが梅ではない。バラ科のものには珍しく五稜形で、スパイスで八角と呼ばれている茴香の実に似ている。茶花としても、根締め、添えに使われるようですとの事。又明治時代に中国から渡来したらしい。

茶道に関しては門外漢の自分は、重ねて尋ねた。
利休と言う人は、安土桃山時代の茶人なのに、ずっと後の明治時代に渡来したこの花に何故、利休と言う名前が付けられているのかと。
程よい温かさの煎茶を勧められながら、話を聞かせて頂いた。
名の由来は、地味で控えめな色彩であることから、侘びた色として侘茶を大成させた利休を連想したらしい。
また、「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くの物に利休の名が残っており、茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいます。

さらに奥さんは、「現代社会は忙しくなり、経済合理性が最優先されようになりました。そして、物は豊かになりましたが、その一方で、何か心に侘しさを感じるのは私だけでしょうか。一見、無駄が多いように思われる対応が、相手の心に想いが伝わり、感動をあたえ、新しい絆ができた喜びを感じた事もあります」と。

別れ際に「武道や芸道はもとより日常の生活に於いても“余情残心”って、大事だと思います」の言葉が今も胸に残っている。

この寺の庭に芍薬が咲く頃、利休饅頭を手に提げて、又奥さんの話を聞きに行きたくなった。


ダイヤモンド富士

2010年04月12日 | 季節は巡る

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一日単位で、太陽の沈む位置が変化していく。三日も見ないと風景までも変わっている。季節の移ろいを感じる。

相模湾を隔てて見る日没は、冬至の頃は天城山近くに見えたのに、つい先週、富士山を越えて、ここ数日は富士山の右側斜面をコロコロと右へ(北の方に)、太陽が転がって行くように見える。これからも太陽はどんどん北寄りに位置を変え、夏至の六月二十一日頃は丹沢山辺りに沈む。そして今より日没時間も50分ほど遅くなり19時過ぎ頃になる。その間、日の出は50分近く早くなる。

「ダイヤモンド富士」と呼ばれる、富士山の頂上に太陽が掛かり、そして沈む瞬間を撮りたくて、その時を愉しみに待っていた。
富士山頂から西側の南北35度以内の範囲では日の出の時、東側の南北35度以内の範囲では日没時に年二回、気象などの条件が揃った時にだけ見られる光景である。
撮るのは日没時だけが勝負。いくら日中晴れていても、日没時に雲が出てしまうと準備していても無駄になる。独立峰の富士山だけ雲に隠れている場合もある。一方、日中雲があっても、日没間際に富士山の上だけ雲が切れる事もあるし、また今日は見えないかなと思っていても、まるで手品のように、日没間際に突然太陽が姿を現す事もある。全く予想が付かない。

今回がそうだった。午前中から花曇が続き夕方になっても、西の空も薄い雲に覆われていた。諦めかけた時、太陽は富士山の向こう側に移動したらしく、見る見るうちに辺り一面を茜色に染めながらシルエットとなって黒い影を現し始めた。

カメラのシャッターを押した。しかし撮った「ダイヤモンド富士」には満足できない。

もう一度チャンスはある。自分が見る太陽は、富士山を後にしてこれから夏の間は丹沢方面に行き、そして同じ速さで9月の初旬には富士山に帰って来る。
その間には掌を返すほどの大きな季節の変化が待っている。

人は、時の移ろいを感じて、初めて我が身を振り返るものか。


800年前のマンション

2010年04月05日 | 鎌倉散策

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この漁師町を抱えるように、裏は高さ100mぐらいの急傾斜の山である。披露山と呼ばれている。
鎌倉時代の初期頃、頼朝に諸国からの献上品を、ここで披露したので山の名前になったと伝承がある。

ここから鎌倉方面に山を下って、更に歩を進めると新しく開かれた住宅地に出る。それを登り進めると、不意に道の表情が変わる。それまでの舗装の道は消えて、細く山肌を這う自然の小径になる。登り始めはどこにでもある山道だ。間もなく道幅は狭くなり、両側から、ぐっと大きな岩が突き出ていると言うより、道自体がその岩を避けて大きく曲がって続いている、厳しい道だ。
「鎌倉七口」の一つとして数えられる「名越切通」(なごえきりどうし)と呼ばれている古道だ。
鎌倉市が世界遺産に登録を目指している歴史的遺産の一つでもある。

鎌倉の地形は三方山に囲まれ、前面に相模灘が広がり、外部からの出入りは大変に不便で、外部からは実に攻めづらい天然の要害の地であった。その後鎌倉と周辺の地域との交通の便を図るべく、海には港(和賀江島)を設け、山の尾根を掘り割って数人は通れるような通行路を設け、外部との往来を容易に出来るようにした。

この「名越切通」の近くの平場に「まんだら堂跡」と「やぐら」群がある。
「やぐら」は山腹をくり抜いた横穴の岩窟で、お墓である。ここには150穴以上の存在が確認されていると言う。
鎌倉は平地が少なく、幕府が平地にお墓は設けるなとの法令を設けた事から、武士を中心に上流階級の間で造られたと言う。
「やぐら」の一つ一つは2m四方程度だが、山の尾根まで一番高い部分では「やぐら」が階段状に4段もある。

始めてこの光景を眼にした時、かってどこかで見た事があると思った。眺めるうちにハッと気が付いた。まるで現代のマンションと同じではないか! 
限られた土地を有効に利用する為に、平面利用から立体利用する方法が現代のマンションだ。お墓のマンションは、現代でこそ珍しくないが、約800年前からお墓のマンションが存在したとは驚いた。

やがて自分の気持も落ち着いた。先人達の知恵や創意に脱帽した一瞬だった。