海側生活

「今さら」ではなく「今から」

若き日と同じ自分

2017年12月28日 | 思い出した

(海蔵寺/鎌倉)

ここ数年は年を追うごとに“身辺整理”の意気込みで、日常生活に必要でないと思うモノは種類を選ばず捨ててきた。

掃除のついでに、ふと、日頃はほとんど開けないクロークの段ボールを開けてみた。
段ボールには本を縦にして二段に詰め込んでいる。その上にポンと横にして置かれたままの本を手に取った。元は白かったであろう表紙も黄色く変色してカビ臭い、いかにも古い本は高校生時代に読み耽り、影響を受けたヘルマン・ヘッセの詩集だ。これまで三十箱以上の本を処分してきたのに、どうしてこの詩集を手元に残したのか。そろりと一ページづつ捲ってみた。
本の空白部分には若かった当時の感想メモや赤字の傍線もそのまま残っている。あの頃のムキになって、「自分に何ができるのか?」、「何をしたら良いのか?」 と問い続けた若い自分に再会して、人間ってあまり変わらないと感じる。しかし「それは、あなたは成長していないのだ」と言われるかもしれない。自分の生きる意味や、更にそれが社会と繋がれるのかが、自分の迷いの問いであった。

この頃、歳を重ねた良さをしみじみと思う。
まるで短編小説のような人生の片々が記憶にあって、そのどれもがいぶし銀のように輝いている。
人との出会いでも、若い時には自分にとって良い人か悪い人か、または好きか嫌いかであった。しかし今ではどんなに変わった人でも面白い、会えて良かったと思う。退屈な人は一つのグループだけで「有名人に近づきたがる人」だけである。他の人はどんな好みや癖でも楽しく思える。
時間の持つ味わいも分かるようになり、電車の待ち時間も、待ち人が遅れて来ようとも楽しくなりかけている。困ったことだ。

今、我が年齢を振り返ると信じられない気がする。いつの間にか歳を重ねた。老いたとは言いたくない。ずいぶん遠くまで来てしまった。

そして若い日と同じ問いかけが心の底にあることを再確認する日々だ。

健やかで明るい新年をお迎えください

落葉を踏みしめて

2017年12月16日 | 感じるまま

(妙本寺/鎌倉)
今年の秋は短かった。それらしい気候を味わえぬうちに、急に枯葉が舞い、冬が訪れた感じだ。

近くのお寺の境内を散策していても、声をあげたくなるほど桜や欅や銀杏の落葉が参道一面に舞い散っている。それを踏みしめ歩くと、足元から乾いた音が心地よく立ち上る。枯葉の中を歩く楽しみには独特のものがある。子供じみた足取りで歩くうち違った落葉があることを思い出した。暫く前、良く耳にした「濡れ落葉」だ。現役を退いた夫が、元気な妻の後を追い、アチコチと付いて回る姿を言い当てたものだった。濡れた落葉は音も立てずに靴の横などに張り付きどこへでも運ばれる。

しかし最近はそんな老カップルをあまり見かけなくなった。女性が元気である点は以前と変わらないが、男性が元気になった印象を受ける。不機嫌な妻に従って黙って夫がついて歩くのではなく、肩を並べて語りながら足を運ぶ二人連れが多い。老い始めた夫婦が歩くとしたら、どんな姿が好ましいか思い描いてみることもある。
若い男女はごく自然に手を繋いで歩いている。中年以上ともなれば軽く腕を組んで歩くくらいが好ましいのかもしれないが、日常生活の中では、それが相応しいような機会には出会わない。一国を代表するような政治家などが夫人を伴って飛行機のタラップを降りる時、いかにもわざとらしく手を繋いでいる光景をニュースで見かけるが、似合わないとか無理しているなとかの感情が沸き起こる。見せるための演出に、つい反発してしましまうからだろうか。
歳を重ねると、身体の変調で歩行自体が滑らかには進まない。手を繋ぐとか腕を組むとかいうよりも、頼りになるものを掴まえておきたい気配が表に出る。

カメラ片手の散策の折、入山料をとらず広い境内を持つお寺で、手を取りあって歩いている小柄な老カップルに出会った。こんな歳になっても手を繋いで歩ける二人連れは珍しいし、羨ましいなと暫く離れた位置から眺めていた。そのうち、ふと気が付いた。二人はただ仲が良いから手を繋いでいるのではないらしかった。男性の足取りに覚束ないところがあり、女性の手に掴まり歩いているのだった。手を繋いでいるのは感情の表現ではなく歩行に必要であったらしい。俯きがちに小さな歩幅で歩く二人は、ほとんど言葉も交わさず、ただ懸命にユックリと足を運んでいた。楽な歩みとは思えなかったが、男が「濡れ落葉」と呼ばれていたようなカップルには見られない共同作業の雰囲気が、二人の足取りの間から立ち上っているようだった。

お互いがお互いの荷物であると同時に支えともなる老いた繋がりは、生きる上での止むを得ない一部に違いない。

濡れた落葉は音を立てないが、乾いた落葉はクスクス笑ったり歌ったりする。どうせ舞い落ちる枯葉なら、なるべく乾いた賑やかな落葉が良い。

寒い朝

2017年12月10日 | 感じるまま

(長寿寺/鎌倉)
富士山の冠雪が、いつの間にか五合目辺りまで青空に映えている寒い朝、今年最後の病院の定期検査のため七時三十分に家を出た。バス停側の植え込みのツツジに霜が降りている。吐く息が白い。

満員電車にやっとの思いで乗り込むと、発車ベルに押されるように、その後から若い女が二人ぶつかり押すように乗ってきた。そうでもしなければ乗れないほど混んでいる。若い女たちだと思ったのは声が若かったからだ。背中に居るので顔は見えない。発車すると女たちはお喋りを始めた。
「もらった?チィッシュ」
「もらった、もらった」
「ずる~い」
「でもさぁ、朝、駅前でチィッシュを配っているでしょ。あれをもらうと、今日は何か良いことがありそうな気がするわね」
「そう、そう」
「ホントは別に良いことなんかないのに」
「チィッシュ一個で良いことなんかあるはずないのにね」
確かに駅前でマフラーをした若い男がチィッシュペーパーを配っていた。私は不運にももらえなかった。若い男は私の前と後ろの人には渡して、男には用がなかったのか。何だか損をしたような気分である。だから若い女たちの気持ちが理解できたので、彼女たちの話に耳を傾けた。

「今年も、アト三週間よ」
「早いのね、一年って」
「昔はそうでもなかったのに」
「歳をとると、一年が早く経つようになるんだって、父が言っていたわ」
「嫌だなァ」
「正月の予定は決まった?」
「予定なんかないわ、あなたは?」
「ないない」
二人はここで声を揃えて笑った。屈託のない声に聞こえた。

彼女たちはクリスマスも大晦日も正月も、これから何十回となく迎えることが出来る。そのことに気付いていない。しかし轟音を出して走る電車の中で、春を待つ小鳥に囀りのように聞こえた。
乗客が大勢降りた時、彼女たちの姿はなかった。

病院の定期検査では特別の変化は診られなかった。
この調子なら、これから年を越して、来年も何とか普通にいられそうだ。