海側生活

「今さら」ではなく「今から」

中年女の恋愛

2018年08月28日 | 海側生活


(由比ヶ浜/鎌倉)

「それでも中年女は恋をする」
前回の知人に続いてその奥さんも、この会話に入ってきた。言葉にするよりもキーボードを叩きメールの方が言いたい事は表現しやすいと注釈があった。
猛烈残暑が続いた日々に、熱い話をまとめてみた。

人生100年時代と言われ始めて久しい。
40代後半にはおおよそ子育ても終わって、さてこれまで過ぎ去った同じ年月をどう生きるかという問題を、特に女性は日々考えている。昔は世代交代が行われたこの年齢で寿命も尽き迷うことも無かったのにと、今や豊富な選択肢と可能性の前で立ち往生しているのは皆同じだろう。

何をどう選んでも良いけど、一つだけ言えば、男であり女であるという性を捨てるには早すぎるし不自然だと言う事。そして性を持った男であり女であり続ければ当然ながら恋愛が発生する。
しかし結婚前の恋愛と最も大きな違いは肉体だ。感情の方は若さを失っていないつもりでも、身体の方は客観的にみて老化が始まっている。まずこの落差に悩まされる。肉体と感情の不釣り合いをどうにか解決して、平穏を得たいと願うものだ。つまり肉体を改造したり装ったりして、若返りを図る一方で、感情の方もこの肉体に相応のものに抑え込もうとする。恋する相手がうんと若かったりするとこの悩みはさらに大きくなる。

私は夫(妻)と再恋愛をしていますというならこんなハッピーな事はないけれど、他にも様々な障害が待っている。これまで自分を護ってくれていた家庭や家族を敵に回さなければならないし、会社も友人も喜んではくれない。何より法律が公序良俗に反する者として扱う。やはり中年以降のトキメキには多大な危険と犠牲が付きまとうのだ。
現代は一個の人間を「女」と「母」の部分に分けた考え方が、昔と違い、むしろ女性の中に根を下ろしているように思える。子供を愛することと女としての本能は水と油のように自分の内部で分離しているものだと、女性自身が思い込んでいる気がする。そして「それでも中年女は恋をする」。

「私がそうだったから」と奥さんはメールの最後に結んであった。
何が“そう”だったのかは分からない、また知らない。

純愛とは

2018年08月19日 | 海側生活

(初秋の富士山)
「あの小説は純愛ですね」と、前回の映画『マディソン郡の橋』を鑑賞した自分の感想文を見て、わざわざ別のメールで意見を述べた知人がいる。

恋愛感情を考えまとめるのは苦手だ、書きながら汗もかいている。時間もほかの三倍ほどかかってしまっている。前回もそうだったが---。

純愛という文字を見て咄嗟に違うと思った。自分は、あのストリーを大人の恋愛と情事という捉え方しかしていなかったから。
しかし自分が違うと思った根拠を思い起こしてみた。純愛と言う言葉に関し、純は若さに繋がり、十代や二十代の初々しい愛と言う概念があった。年齢を重ねてからの純愛となると、家庭を壊し、社会の秩序に抵抗し、培ってきたキャリアや信用などを放り出しても愛する人と一緒に暮らす一途な情熱を思い浮かべていた。

確かに、少年少女の無垢な愛があるとすれば、その純粋さは無知や未経験からくるものであり、愛情の深さとはあまり関係がない。少しばかり大人になり、人生設計を考え、自己保存の欲求に目覚めた後は、恋愛が巣作りと結びつき、生活に重なってゆく。男は健康な美人で子供を立派に育ててくれそうな女を選ぼうとするし、女は自分の将来を買うつもりで男を選ぶのは、ごく自然の成り行きなのだ。打算的と言えなくもないし、決して純粋ではないけれど、これは生存していく上での知恵だし本能だとも思う。結婚を前提とした恋愛であれば当然だ。だから恋愛を人生の設計図に絡ますことのない中年以降こそ、純愛が成り立つのかもしれない。

確かに中年になっても、若者顔負けの決断と行動力で、家庭を壊して新しい恋に人生をささげる男女はいる。しかし恋愛に生活の影が被さって来ると、人は愛だけを喰って生きていくわけにはいかず、夢の褥で眠る訳にもいかない。愛以外の社会的や経済的な煩雑にも関わらなければならず、純愛とは呼べない状況が生まれてくる。
こんな純愛が身軽な割に一方で悲しいのは、純愛の存在を証明するものがどこにも何もないと言う点だ。秘めたる恋が発覚し、妻や夫や子供などの罪なき第三者が傷つく事でしか、当人以外の者に、その恋愛を主張できないのだから。

中には親しい友人に打ち明けたり、『マディソン郡の橋』のフランチェスカのように、死んだ後、息子や娘に告白するという方法もあるが、これはやはり純愛道に反し邪道だと思う。

どうせなら、当人たち以外には誰にも知られないまま、死と共に永遠に無くなるのが純愛であって欲しいような気がするのだが---。



最後の恋

2018年08月10日 | 海側生活

    (江の島・東浜灯台)
大人の恋は忙しい。
立秋前の酷暑が続いたある夜に、無造作に撮り溜めたBS映画番組の録画の中から『マディソン郡の橋』を見た。封切られた時に見たから二度目の鑑賞になる。

以前に見た時はこんな印象は残らなかったが、大人というか中年の男女の場合、恋愛と情事を区別するのはとても難しい気がする。肉体の関わりを持たない恋愛というのは、中年には不自然なことで、性と感情がピタリと一致しているのが中年の恋というものだろう。
恋をすれば相手の肉体までも望むし、この点女性は特にそれが強い。「あの人への気持ちは自分でもよくは分からないけど、会えば抱かれたいと思う---」と困った顔で告白した五十代の女性を思い出す。
『マディソン郡の橋』のフランチェスカとキンケイドは出会って僅かの間に肉体の関係を持った。この早さ、躊躇いの無さは、若い男女であれば恋でなく、情事とみなされも仕方がないだろう。二十代の男女が出会って僅かの間に肉体関係を結べば道徳の乱れやいい加減さが感じられてしまうが、フランチェスカとキンケイドの年齢が、こうした汚れを拭い去り、恋愛の激しさを印象付けているのだろう。しかし中年の恋愛は情事とよく似ているし、もしかしたら同じものかもしれない。
二人はたった四日間だけ、火のように愛し合い別れるが、どうしてこんなに慌ただしく求め合い、忙しく諦めるのだろう。この気ぜわしさ、荒々しいまでの接近と別れが、この映画を面白く強いものにしている。きっと中年の恋だから見る者を納得させたに違いない。

中年には人生の残りが少ないという焦りがある。人生とは命ではなく、男としてまた女としての命の事で、これが最後の恋、最後の相手との思いが、心や体を波立たせ相手に走らせるのだ。
のんびりと手続きを踏んでいる余裕などないのだ。
二人が中年でなかったら、この映画は行きずりに肉体を求め合った、つまらない一作になっていたに違いない。人生の終着点のような鐘の音が聞こえてきたおかげで、見応えのある恋愛映画だった。

ともかく中年の恋は熱く忙しい。