海側生活

「今さら」ではなく「今から」

お別れ会

2011年08月29日 | 感じるまま

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那覇市に住む友人の話によると、那覇市近郊の不動産の価額が上がっていると言う。それも中古マンションの値上がりが著しいと言う。
 
知人から転居の挨拶状が突然舞い込んで来た。
「中学生の子供と猫を連れ、地震と放射能の恐怖から逃れて、東京から沖縄へ自主避難しました。今は、水道の水が普通に飲めること、マスクをせずに思い切り深呼吸できることの有り難さを噛み締めています」と、あった。
彼は2DKのマンションを買ったらしい。

福島県では夏休みまでに小中学生7600人が県外に転校し、さらに転校希望者は1万人を越えると言う。
福島県内の全小中学生17万6600人余りの約10%が減る計算になる。多くは「放射線への不安」を理由に挙げたという。

ある小学校では夏休みまでは、毎日のようにお別れ会があったとも言う。
自分も転校の経験があるが、その時の事を思い出すと心がチクチクする。あの時、父の赴任先へ引越しの時、自分が乗った列車を途中で待ち受け、何かを叫びながら追いかけて来て、姿が小さく見えなくなるまで手を振り続けた友人達、いつの間にか自分も涙を流しながら手を振り続けたあの時、そのシーンを思い出すだけで胸が締め付けられる想いがする。

福島県では、これからもお別れ会は続くだろう。

地震や津波による災害には当然復興は急がねばならないことは言うまでも無い。
しかし原発事故に復興は無い、収束を図るだけだ。

国会の参考人説明(7/27)で、児玉龍彦・東大教授によれば、福島原発からは広島原爆20個分の放射性物質が飛散したという。残存量もはるかに多く、今後の影響の大きさ、広さは計り知れない。

二度と故郷に戻れない、故郷を失った人は数え切れない。
築きあげた人生を壊された人も又数え切れない。


歳を重ねる

2011年08月23日 | 感じるまま

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歳を重ねると、経験がその人を知恵者に仕立てあげるが、ところが丁度その頃、耄碌(もうろく)も又彼に追いつくものらしい。

「アレ、なんて言ったっけ、ほらアレ---」と、人や物の名前が出てこなかったり、トイレの電気の消し忘れ等、単純な物忘れが増えたと周りの人達からも度々聞くようになった。

確かに60歳を過ぎると体力は衰えてくる。これは自然な事だと思う。
階段を昇り降りする時とか、少しだけ走らなければならない時など、脚力に気を遣ったりはする。また関節にそれまで気付かなかった弱点が生じるのに気付いたりする。
と言って、体力と比例して、気力と言うエネルギーも衰えてくると思うのは間違いではないか。

知人に高齢者施設の施設長がいる。彼が長年の経験から次のような事実をまとめたと言う。
「ボケた男は40歳の自分に戻り、女は必ず18歳の自分に戻る。男女ともに人生で一番いい時代に戻る。
そして男性は妻の名を呼び続ける。女性は両親の名を呼び、次に子供の名を呼ぶ、夫の名を呼ぶ人を見たことが無い」。

体力や気力と言った捉えかたと、ボケると言う意味は全く分野が違うと承知しているが、最近考える。
体力の伴走者が気力であり、60歳を越えたらこの気力と言うエネルギーが脳内に充満したと思えるような人間らしい生き方をしてみたいと。

しかし今、自分の年齢を振り返ると信じられない気さえする。
いつの間にか歳を重ねた(老いたとは言いたくない)。


音の夏

2011年08月17日 | 海側生活

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一年中で、一番音が溢れている季節はいつだろう。
やはり夏だと思う。

たった今も開け放った窓から、蝉の声が聞こえてくるし、海面を走る水上バイクやモーターボートのエンジン音も飛び込んで来る。夜になっても生き物の活動は途絶えることが無い。耳に届く音の量と多様性は、圧倒的に夏に集中しているように思う。

秋の枯葉が地面を転がる音、真冬にボタン雪が降り積む音、満開の桜が花弁を散らす音など、なぜか日本の美を表す他の季節の音は、音でありながら静寂と言う相矛盾する表現を内に抱えているが、しかし夏の音は違う。生き物が発する絶え間ない音や夜空を染める花火のドカーン、バチバチにしても、実質的に鼓膜を振動させて呉れる。一言で言うと夏は騒々しい。

材木座海岸の外れに位置し、大型プールを持つ施設で、お盆時の三日間は恒例のイベントが行われている。「水着で楽しめるリゾート型・野外イベント」と銘打っている。午後になってすぐ始まり、日没以降も絶え間なく音楽が鳴り響いている。時折、耳を劈くような叫び声も聞こえてくる。歌っている言葉は全く聞き取れない。プログラムを手にとって見ると、30名近い歌手等の名前が列挙してあるが、自分が知っている歌手の名前は逗子出身のキマグレンだけだ。見れば客は皆若い、20歳前後だ。

日没後、一時間ぐらいでイベントは終わった。先ほどまでとは打って変わって、海側には夜の静寂が戻ってきた。
窓を開けベランダに出ると、東の空には大きくてオレンジ色の満月が輝いている。やがて海面に映る光が、一直線に自分に向かって伸びてきている。

飼っている鈴虫の音色だけが、過ぎ行く夏を惜しむかの様に聞こえてくる。


裕次郎灯台

2011年08月10日 | 海いろいろ

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好むと好まざるとを問わず、昔聞いた歌というものは、いやでも自分の過去を思い出させるものだ

葉山の景勝地・森戸海岸の岬に森戸神社がある。境内の海側には石原裕次郎の映画『狂った果実』の歌詞が彼の胸像と共に、500m先の灯台を望むかのように設置してある。その灯台は、石原裕次郎の三周忌を記念して兄・慎太郎が基金を募って建てられたと言う通称“裕次郎灯台”だ。
そこは、ただ静かな海面が広がっているようにしか見えないが、低潮時でも水面に姿を見せない危険な暗岩があり、それまではレジャーボート等が乗り上げ、度々事故があったらしい。

石原慎太郎・裕次郎兄弟がデビューした昭和30年代から40年代にかけて、その頃のヒーロー・石原裕次郎の映画を見た少年は、映画館を出る一瞬、石原裕次郎になった。どんなに短足の少年でも数歩は、膝から下を投げ出すようにして歩くヒーローの歩き方を真似、その気になった。今思えば滑稽であった。しかし、この滑稽さの良いところは、すぐに正気に戻ることで、周辺に映画館からの流れの人々がいなくなると、チョコチョコといつもの自分の短足なりの歩き方に戻ったものだ。

そんな雰囲気を経験したことがあるであろう従弟が奥さんと共に佐賀県・唐津から、10月上旬に遊びに来る。
当時、彼は運転していた機械とともに掘削溝に転落し、両足を複雑骨折した。その後六ヶ月間入院し、完治したものの、社会人として華々しくも痛いスタートを切った。横須賀の住宅地造成現場での出来事だった。
その後、彼は地元で職に就いた。そして、ある女性と恋仲になり結婚した。奥さんは、今でも一緒にいると不思議と心が安らぐ魅力を持った方だ。
彼の思い出を連れて、裕次郎灯台と彼の『My骨折記念地』も訪ねてみよう。

灯台は今でも、3秒に1回、白色光が点滅している。

思い出を手に取るようにして、それに触れた時、改めて明日からの自分が見えることがある。


歌が出来た

2011年08月04日 | 東海道五十三次を歩く

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歌が出来たと“オジサン”が言う。

東海道五十三次を歩いた時、岡崎宿から池鯉鮒宿(現在の知立)、鳴海宿、そして41番目の宮宿(名古屋)の七里の渡しまでの二日間は、自分にとって無くてならない存在の“オジサン”が同行してくれた。
あの時、自分は道連れがいて、随分と足取りが軽くなったような気がしたものだ。

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歩き旅
    
作詞・作曲 オジサン
1.想うは揺らぐ 霧の中
  己を忘れて 一心に
  東海道歩く その先に
  憩いのしるべ 一里塚

2.憂いは浮世の 常なれど
  後楽訪ねし 旅の空
  過ぎ行く雲や 水の流れに
  いつしか無我を 吾は知る

3、面影残す 松並木
  格子戸造りの 宿場跡
  古き出会いに うずく旅 
  心を燈す 常夜灯

4.三条大橋 雨の中
  人の情けや 思い出に 
  灯りがぼんやり かすんで映る  
  友とからだに 乾杯を

  ンーン ンーン
  友とからだに 乾杯を!

あの時、“オジサン”は決して濃くは無い頭から流れ落ちる汗を拭きながら、自分の事を何かと気遣って呉れた。表情を見ると、それ以外は何も考える余裕なんか無い様子だと思ったが大きく違った。

後日「歩き旅」の詩と曲が出来たと聞いた時に、「実は、一緒に歩いている途中、何となく詩と曲のフレーズが部分的に浮かんできて、頭の中で口ずさんでいたんだ。その後のブログを見ながら、勝手に歩きの主人公になった積りで、仕上げたんだ…。主人公の想いとは少し違うとは思うけど…、“オジサン”バージョンということで悪しからず」と言うことだった。

これまでの人生で、最も素晴らしい刻を挙げるとすれば、その中の一つに数える事が出来る道連れだった。