(妙法寺/鎌倉)
『突然のお誘いで済みません』
彼は居酒屋のカウンターに座るなり話し始めた。いつもは絶えない笑みが今日は見られない。時間が早いためか他の客は居ない。昭和の匂いを今なお色濃く残し、鎌倉の車も通れない裏路地の小さなお店。
『奇跡が起こったのです!』何事かと杯を傾けながら黙って聞いていた。
『本当に奇跡が起きたのです。長い間、会いたかった人から突然、メールがあったのです。眼に入った瞬間、全身が震えました』
『------』
『先の病気の手術後、遠くはないだろう最後の刻を覚悟しつつ、身の回りの全ての整理をしました。そして関係者の同意を得て、今後は自由に生活をする道を選びました。また?サヨナラ〝をする前に会いたい人の名簿を作りました。そして疎遠になりがちだった叔父や叔母、従兄弟たちにも足を運んで皆に会いました。40年振りに会った従妹もいました。もちろんこれまでお世話になった方々のお墓参りもすべて改めて行いました。古くからの友人達にも自分の覚悟は伏せて会いました。会ったと言うよりこれまでの感謝の念をそれとなく伝えたかったのです』
次の言葉を待った。
『しかし、一番会いたいと願う人には、手を尽くしてもどうしても所在さえ分からない。その人との思い出の土地や街も訪ねました。そして諦めようと決めました、いや決めた積りでした。自分でも引き出せないほど胸の奥深くにしまおうと---』
時折、遠くを見るような顔つきで口をつぐむ。
『しかし、あの人だ!と、これまでも雑踏の中で思わず振り返ったことも度々ありました。可笑しいですよね、数十年も経っているのに当時の面影を追っているなんて---』
『どんな関係の人?』
『元、妻です。その人からのメールです。?迷いました・・・一度だけの送信をさせていただきます。お元気でいて下さい〝と、短く』
彼は息を大きく吸い込むと話を続けた。
『この奇跡に心が躍り、何も手が付きません。願いがやっと通じたと考えています。日頃より信仰心のない自分は、この奇跡を何にまた誰に感謝すれば良いのか!』
思わず聞いた。
『どうしたいの?』
『会いたいのです。会えたらもう思い残すことは何ひとつもありません。しかし彼女に迷惑を掛けるのではと心配です----』
『----』
『一途で青かった数十年前の、あの時、あの些細な事で別れを判断した自分が---』
彼はグイと勢いよく杯を干した。どうしても止まらない心の震えを酒と一緒に飲み込もうとしているかのように。
失くしたら耐えられないものは、二度と創らないと決めた経験を持つ自分には、彼の震えが身に沁みる。