海側生活

「今さら」ではなく「今から」

奇跡が起こった

2014年05月30日 | 海側生活

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                                    (妙法寺/鎌倉)

『突然のお誘いで済みません』
彼は居酒屋のカウンターに座るなり話し始めた。いつもは絶えない笑みが今日は見られない。時間が早いためか他の客は居ない。昭和の匂いを今なお色濃く残し、鎌倉の車も通れない裏路地の小さなお店。

『奇跡が起こったのです!』何事かと杯を傾けながら黙って聞いていた。
『本当に奇跡が起きたのです。長い間、会いたかった人から突然、メールがあったのです。眼に入った瞬間、全身が震えました』
『------』
『先の病気の手術後、遠くはないだろう最後の刻を覚悟しつつ、身の回りの全ての整理をしました。そして関係者の同意を得て、今後は自由に生活をする道を選びました。また?サヨナラ〝をする前に会いたい人の名簿を作りました。そして疎遠になりがちだった叔父や叔母、従兄弟たちにも足を運んで皆に会いました。40年振りに会った従妹もいました。もちろんこれまでお世話になった方々のお墓参りもすべて改めて行いました。古くからの友人達にも自分の覚悟は伏せて会いました。会ったと言うよりこれまでの感謝の念をそれとなく伝えたかったのです』

次の言葉を待った。
『しかし、一番会いたいと願う人には、手を尽くしてもどうしても所在さえ分からない。その人との思い出の土地や街も訪ねました。そして諦めようと決めました、いや決めた積りでした。自分でも引き出せないほど胸の奥深くにしまおうと---』
時折、遠くを見るような顔つきで口をつぐむ。
『しかし、あの人だ!と、これまでも雑踏の中で思わず振り返ったことも度々ありました。可笑しいですよね、数十年も経っているのに当時の面影を追っているなんて---』
『どんな関係の人?』
『元、妻です。その人からのメールです。?迷いました・・・一度だけの送信をさせていただきます。お元気でいて下さい〝と、短く』

彼は息を大きく吸い込むと話を続けた。
『この奇跡に心が躍り、何も手が付きません。願いがやっと通じたと考えています。日頃より信仰心のない自分は、この奇跡を何にまた誰に感謝すれば良いのか!』
思わず聞いた。
『どうしたいの?』
『会いたいのです。会えたらもう思い残すことは何ひとつもありません。しかし彼女に迷惑を掛けるのではと心配です----』
『----』
『一途で青かった数十年前の、あの時、あの些細な事で別れを判断した自分が---』
彼はグイと勢いよく杯を干した。どうしても止まらない心の震えを酒と一緒に飲み込もうとしているかのように。

失くしたら耐えられないものは、二度と創らないと決めた経験を持つ自分には、彼の震えが身に沁みる。


忘れないで

2014年05月08日 | 思い出した

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                                        (安国論寺/鎌倉にて)

久し振りに見た、見たというよりこの花が咲いているのに気が付いた。
覚園寺(鎌倉)に向かう道すがら、細い川沿いに咲き誇っている藤の木の陰に隠れるように清楚な姿を覗かせていた。

薄青(紫)色の1cmもない小さい5弁の花を咲かせ、花冠の喉に黄色と白色の目を持っている。「忘れな草」だ。
かなり古の多感だった頃、辛かった思い出と共にこの花の名前と由来を知った。英名の「forget me not」(私を忘れないで)の翻訳だ。上手い和訳だ。
中世ドイツの悲恋伝説に登場する主人公の言葉に因むと言う。騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降り、手折った瞬間、誤って川の流れに飲まれてしまう。ルドルフは必死に泳ぐ。ベルタは流されるルドルフを追って川岸を走る。しかし流れが速すぎる。ルドルフは最後の力を尽くして摘んだ花を岸に投げながら、?Vergiss-mein-nicht!“(僕を忘れないで)という言葉を残して流れに飲み込まれてしまう。残されたベルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名にした。
その後、失った恋人のことを生涯想い続けて純潔を守りぬいたベルタを讃えて「真実の愛」という花言葉も生まれたと言う。

「忘れな草」には他にも伝説がある。
天地創造の時、神はあらゆる動植物に名前を与えられた。だがこの花は小さ過ぎて、その時、神の眼に止まらなかった。そこでこの花は『神様、私を忘れないで!』と叫んだ。それが名前になったと言うのだ。

そう言えば最近、自覚している事で、固有名詞が咄嗟には口から出てこない時がある。「あれ」とか「それ」って言う事が多くなった。またトイレや洗面所などの明かりを消し忘れる事も増えた。
気が付けば、この時も古を回想するのに我を忘れて、この清楚な「忘れな草」を撮るのも忘れてしまった。

『忘れないで』の言葉はヒトに言うより自分に言い聞かせる言葉かもしれない