海側生活

「今さら」ではなく「今から」

頬も感じる

2014年03月24日 | 季節は巡る

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                   (ハクモクレン/長谷寺・鎌倉)

いよいよ花の季節である。

週末の朝、近くのカフェの外の席でコーヒーを味わいながら季節の移ろいを肌が感じている。海から吹き寄せる風が、まだヒンヤリとした冷たさが頬を撫でている、しかし陽の光はずいぶんと優しくなった。

梅や満作が散り、やがて山茱萸(さんしゅゆ)や辛夷(こぶし)が咲き、さらに雪柳や木蓮が咲けばすぐに、めくるめく桜の洪水が押し寄せる。同時にPM2.5の飛来が気掛かりだ、また花粉の飛散には、罹っている人にはつらい日々が続く

日頃、花を愛でるココロの無い人でも、さすがにこの時期ばかりは気もそぞろになる。桜と言う絶世の美女に誰もがココロを奪われる。古来わが国では、花と言えば桜の意であったらしい。
満開の桜は一人で見るのが良い。訪れる人もいないささやかな木でも良いから、その根元に座り、散りかかる花にまみれるのである。じっと、そうしていると、人生には他に何も要らないと言う気分になる。

ココロが満ち足りる。つまり幸福である。自身の入院や友人との永久の別れ、あるいは大切なものを捨てたり壊したりと、忙しい一年であったけれども、桜はわずか数日の花の命で人のココロを満たしてくれる。

『ねがわくば 花の下にて春死なむ そのきさらぎの 望月のころ』
西行法師は幸福な人である。


凄いトシヨリ

2014年03月07日 | 感じるまま

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                                             (常立寺/藤沢・江の島)

還暦を過ぎて久しく時が流れた。

何と凄いトシヨリになったものだ!まるで海図の無い海に入ったようだ。見知らぬ森に迷い込んだようでもある。何しろこれまで、こんな凄いトシを経験したことがないので、毎日に戸惑うばかりである。

若かった頃、他愛無い憧れや、身を灼くような煩悩や、いらざる妬みに苦しんだ。そして密かに思っていた。いずれトシを重ねれば欲望は薄れていく。憧れも煩悩も妬みも薄れ、トシとともに消えていく、それが老いの効用だと。
しかし凄いトシヨリになってみて解ったが、欲望はちっとも薄れない。薄らいだフリするのが上手になっただけだ。今も尚、他愛ないことに憧れ、身を灼くような煩悩に苦しみ、いらざる妬みを抱いている。

トシをとり、経験を重ねると利口になると思っていたが違っていた。経験が教えるのはせいぜい用心深くなることぐらいだ。自分を含め同年輩を観察していて分かったが、トシを取ると学ばない。すでに所有している知識をアレンジするだけである。トシを取ると学ばないのは、トシを取ると指図したがり、そのくせ当の自分は指図されるのを好まないのと正確に対になっている。

地球の引力を知るのは、飛び上がって落下する時である。健康の有り難さは病気にならないと分からない。となると若さは老いた身になって初めて判明する。中でも老化が分かるのは記憶力の部分だ。

「トシヨリとは」いつも持ち歩く手帳に、そんな見出しのページがあり、凄いトシヨリになって気付いた事を書き入れている。順に番号を振っているが、今の数字は28とある。それは「トシヨリになれば、経験がその人間を知恵者にする、ところがその頃、モウロクもまた彼に追いつく」とある。

番号が50になったら、トシヨリブックにまとめる積りだが、そう言えば17に「トシヨリは何であれ整理してまとめたがる」とあった。