海側生活

「今さら」ではなく「今から」

着物姿

2018年04月29日 | 鎌倉散策

                 (仏行寺/鎌倉)
ツツジの群落の中の小径をユックリと歩を進めながら若い娘が、何やら口ずさんでいる。彼女自身はそのことに気付いていないようだ。

黒地に花や木など様々な模様が浮き出た着物を着ている。その着物がよく似合う。姿の良い娘だった、スッキリしているのに艶やかだ。三年ぶりにツツジを一通りカメラに撮り納め、本堂の裏のベンチに腰を下ろし、彼女と、そして彼女からやや遅れて歩くもう一人の初老の女性を見上げ眺めていた。二人は親子らしいが似てはいない。母親らしい女性もまた気品があり背筋がシャキッと美しいのだ。
二人が赤や白色の中に浮かび上がって見える。まるで襖絵の美人画から抜け出したような、なんて絵になる光景なのだろうと一人絶句する。遅咲きで赤紫色のオオムラサキツツジや斜面一面のツツジ色の中で見ているからかもしれない。或は鎌倉の人混みの中で目にするパジャマを連想させるレンタル着物姿が刷り込まれているためなのか。

鎌倉・仏行寺は今や鎌倉一番のツツジ寺だ。しかし駅からもバス停からも遠く観光コースから外れているから参拝者は少ない。今はまるで全山を貸し切り状態だ。

やがて母と娘らしい二人は軽く会釈をして立ち去った。辺りが少し暗くなったような気がした。もちろん気のせいだろう。二人はこれからどこに行くのだろう、北鎌倉に出てアンミツでも食べるのだろうかなどと想像した。

その夕方、久し振りに会った友人が大船の小料理店に案内してくれた。店に入って驚いた。午後の仏行寺で出会った二人の女性たちがいたのである。
「お母さん、早くしてぇ-」と娘が言っていた。「そんなこと、言ったてぇ-お前」と母親は答えながら。急ぐ気配もない。

酒を飲みながら、友人は「今年もユックリとは桜も見られなかった」とぼやいた。自分より若く働き盛りの友人はいつも忙しい。「桜よりもこの着物姿の娘がはるかにキレイじゃないか」と自分は彼を慰めた。すると娘が私達に振り返り、「今、何とおっしゃったの?」と尋ねた。友人と自分はただ顔を見合わせニヤッとした。




艶やかな髪

2018年04月16日 | 鎌倉散策

           (海蔵寺/鎌倉)
鎌倉女子大学の事務局に行った。
往復はがきで申し込みをすることになっているが、他の用のついでに直接窓口に初めて足を運んだ。来月から今年も始まる『吾妻鏡』の受講申し込みだ。もう七年目になる。

事務局内の部屋は静かだ。受付カウンターで用向きを伝えると若い女性が対応してくれた。物静かで丁寧な対応だ。年のころは三十七、八の人だった。黒い艶やかな髪が目を引いた。髪に目がいったのは前髪に桜の蕊(しべ)が付いていたからだ。花が散ってしまった桜の枝には無数の蕊がガクに付いている。やがて蕊も散ってしまう。桜の木の下を通る時など、蕊が肩や頭に降って来ることを感じることもある。
艶やか髪に紅の桜の蕊が付いた中年の女性というのは、なかなか風情がある。そこはかとない色気が漂っていていた。自分の話も途絶えがちになる。だから髪に蕊が付いていることは彼女には告げなかった。
申し込み手続きは五分も掛からずに終わったが、足を運んだ甲斐があったと気分も良くなった。

彼女はネックレスもイヤリングも付けていなかった。口調もそして服装も気持ちが良いほどスッキリとビジネスライクだったことに外に出て暫くして気が付いた。ただ一つ、桜の蕊が彼女の女らしさを自ずと表していた。雰囲気からしてお洒落な人だと感じたけど、意識して桜の蕊を髪に散らしたわけではないだろう。それは天の恵のようなものだったに違いない。そういえば彼女は左手の薬指に指輪をしていた。

それから一週間ほどたった土曜日の昼下がり、海蔵寺で満開の山吹と石楠花を写真に撮り終え、小町通りを駅に向かっていたら、偶然に彼女を見かけた。中学生らしい小柄な娘と一緒に何やら楽し気に会話をしている。「ママは---」という母親似の娘の弾んだ声が聞こえてきた。

桜の旅路

2018年04月07日 | 鎌倉散策

(光明寺/鎌倉)
桜並木を歩くと不意に記憶が蘇る。
父母に手を引かれた歩いた事、一人で足早に通り抜けた十代、恋人とゆっくりと歩いた記憶、綿アメを持った息子の手を引き園の途中まで歩いた思い出、そして今こうして立ち止まり、しみじみと遠くの又目の前の桜に想いを馳せている。自分の人生を早送りで見るような思いがする。視界が桜色に染まるこの季節ならではの感覚かもしれない。

材木座海岸から近い光明寺境内の古木で大きい一本の桜の木の下で、やや腰が曲がりかけた老婦人が両手を目の高さで合わせている。ついていた杖は数歩後ろに佇む娘と思しき女性が手にしている。まるで何かを拝んでいるように見える。神社仏閣で風景写真を撮ることが多いから本尊に向かい手を合わせる光景はよく目にするけど、桜に向かって手を合わせる人は初めて見る。

人が桜に魅せられるのは、目の前に咲く花だけを見ているからではないだろう。きっと、あの世に向う旅路には、桜の花が咲いているのだ。初めて歩く旅路に、自分が観てきた桜、大好きだった桜の全てが見事に咲き誇っている。そのことを私達は知っているから、毎年花が咲くと駆けつけて、心を花で満たすのだ。

ここ数年、行く春を惜しむ思いが強くなっているのは、季節への思いだけではない。来年の春が私に巡って来るかどうか。桜を見たい気持ちが今年、より強かったのは、この想いがあったような気がする。行く春を惜しむのは、わが命を惜しむということだったのかも知れない。

今年も足早に桜は通り過ぎて行ってしまった。