海側生活

「今さら」ではなく「今から」

遠くの火

2017年08月26日 | 海側生活

今年の夏も花火をしなかった。
子供の頃は花火をするのが夏休み一番の楽しみだったのに。

夕食の後、闇の気配が濃くなるのを待って庭に出る。姉弟妹達とはしゃぎながら花火の袋を覗き、我先に好きなものを選ぶ。ペラペラとした薄い紙の花火、細い枝のようなものに火薬を巻いた花火、そこらじゅうを走り回るネズミ花火。どの花火も火をつけられた途端に弾ける。その瞬間を心待ちにしながら、親がマッチを擦ってくれるのを待つ。
火を点けてもらうのは小さい子から順番だ。妹の花火が燃え上がり、次の妹の花火に火が付けられ、そして弟のやや大きな花火に火が点され、やがて自分の番だ。マッチが花火の先っぽに近づくと手元が明るくなり、手から光がこぼれる。最初の妹の花火が消えた頃、最後の姉の花火に皆の眼が集まる。
火薬が燃え尽きると火はパタリと消える。明るかった庭は闇に戻り、辺りはシーンとなる。花火は光だけでなく音も放っていたことに気付く。周囲を真昼のように照らす銀色の大きな花火は憧れであったし、強い光に向き合う覚悟も必要だった。いつも後の方まで残していた。そして一番最後まで残るのは線香花火だ。小さな光を躊躇いながらチリチリ放つ線香花火。地味な光は物足りなかった。途中でポトリと落ちてしまうのも癪だった。
普段、夜は外で遊ぶのは許されていなかった。花火の楽しさには、夜の空気を呼吸する解放感もあったのかもしれない。

やがて我々、歳の離れた子供たちは、皆でする花火から遠のいていった。
燃えた後に残る白い煙や火薬の臭いも思い出の中のものとなった。

暑さしのぎにルーフバルコニーで暗い海を眺め潮風に当たっていたら、相模湾を隔てた対面の半島の中ほどあたりから花火が上がっている。思わず身体をチェアーの背もたれから起こした。伊東か熱海だろう。
花火が開く音も、人々の歓声も海を隔てたここまでは届かない。ただ光の花は音も無く咲いて、音も無く散っていく。チェアーにもたれながら花火を見続けた。花火が上がるたびに命が生まれ、消えるたびに散るようだった。30分ほどで、光を放っていたその場所には闇が戻った。思いがけなく花火を見ることが出来た小さな驚きと同時に物足りなさが残った。腹まで響く花火の音や拍手や歓声が聞こえなかったせいだろう。

静かな花火は寂しい。

呼び名”後期高齢者”

2017年08月20日 | 感じるまま

(花塚/円覚寺)
怪しからん、面白くない、不愉快だと、昨日も小雨が降りしきる中で、92の好スコアーでプレイしたとゴルフ自慢をする友人が電話の向こうで怒っている。
役所の後期高齢者と言う呼び名が気に入らないらしい。

後期でも末期でもヨボヨボでも大ジジィでも呼び名は何でも良いが、確かに後期と呼ばれたら、いかにも「もう後が有りませんよ!」と何かをせっつかれているようで、なんだか落ち着かない心境になるのは事実だ。

友人のボヤキを聞きながら考えた。
人は皆、衰え死んでいく。それが万物の自然である。なるべくしてなっていく、この自然の成り行きに目を瞑り、次から次へと新たな目標を設定し、更に頑張ることもないのではないか。エネルギーがある時は自然に頑張れるのだから、大いに頑張れば良い。エネルギーが無くなって来ると頑張りが利かなくなって来るのだから、その時は頑張らなければ良い。頑張らなければいけないと言う事はない。自然に任せれば良い。若さと元気ばかりを追い求めていると、ある日、シッペ返しを喰うかもしれない。その時に慌てないで済むように、日頃から自分の衰えを見守っておきたい。そんな心境になった。

例えば、このブログを書き始めて早三日目にもなる、どうにもまとまらない。以前なら、こんなものは一時間もあれば書けた。どんなに若ぶってみても、身体ばかりかアタマや集中力が衰えて来ているのだ。しかし、これが人間の自然なのだ。これが自分の現実なのだ。この現実を見定め、受け止めることが大事、無理な抵抗はしないと自分に言い聞かせる。

「あのうるさい人も年をとって丸くなりましたね」などと言葉を耳にするが、丸くなるとは人間が出来て角が取れたのではなく、単にエネルギーが枯渇してきただけの事であったと今にして分かる。何も感心するほどの事ではなかったのだ。

日常でも様々な欲望が涸れていっていることに気が付いている。それと一緒に、これまでの恨みやつらみ、嫉妬や見栄など諸々の情念も涸れていく。
きっと、これらを寂しいと感じるくらいが、穏やかに後期高齢者が過ごす時間なのかもしれない。

でも気の抜けたビールみたいに感情を表に出さない生き方は窮屈だ。


静かな仕草

2017年08月07日 | 感じるまま

(高徳院/鎌倉)
テーブルにコップを置く。ドアーを閉める。エルベーターのボタンを押す。
こんなありふれた動作が、美しくも醜くにもなる。

今日も鎌倉駅で、前を歩く、すでに水着に着替えたような胸も露わな若い女性が、改札口を通る時、腰からチェーンにぶら提げたケースを持ち上げパーンと叩きつけるようにタッチして外に出た。余りにも大きな音がしたので、思わず顔や体の全体を見てしまった。改札口を出た後、やや離れて、人はどんなタッチをしているのかと改めて眺めていた。軽くタッチする人もいれば、ただ機械の上にソッとかざすだけの人もいて様々だ。高性能なシステムの機械だから、どちらでも事足りる。

しかし、何かをする時のちょっとした動作や身のこなしで、本心や性格が、本人が隠そうとしても、無意識のうちに「クセ」や「仕草」に現れると言うではないか。
例えば、人と向かっている時、頭をかいたり髪を触ったり、上目づかいや瞬きが多くなったり、目を擦ったり耳たぶを触ったり、唇を触ったり嘗めたり噛んだり、首を傾げたり腕を組んだり爪を噛んだり、ペンやストローを噛む、貧乏ゆすりしたりなどの「仕草」は心理状態まで現してしまう。更に文字を書くとなると、より「クセ」や性格までが鮮明になる。
また、携帯を手放さない人は、人間関係に怯えている傾向があるらしい。相手と普段から信頼し合っている関係なら、連絡がなくても人間関係は揺るがないし、寂しい気もしないはず。携帯電話を使う頻度が高い人には人間関係に不安を抱えている場合があると分析するらしい。

不安・緊張・拒絶を感じた時、自己主張をしたい時、嘘をつくか本心を隠している時、安心・心を許している・感情コントロールをしている時などと、人の心理は必ず態度に現れると言う。

コップだってガチャン!と置かれたら、だれでも嫌な気持ちがする。
静かにユックリと置けば“おもてなし”になる。